妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

円融寺(東京都目黒区)

えんゆうじ #814

円融寺(東京都目黒区)

えんゆうじ

東京都目黒区に所在。 経王山と号す。 天台宗
当寺の元禄期の過去帳によると、慈覚大師が嘉祥元年(八四八)に開いた古刹(寺伝では仁寿三年=八五三=草創という)で、古くは法善寺、法服寺といい、延暦寺の末寺であったと記す。
ところが弘安六年(一二八三)に中老僧日源(岩本実相寺開山)が法論によって改宗させ、妙光山法華寺と改めた。
境内にある日源の宝塔は寛永一三年(一六三六)に造立されたものであるが、昭和四九年(一九七四)五月に境内整備のため移動したとき、その中心部から古壺が発掘された。 壺は高さ二五(センチ)、口径九・五(センチ)のもので、中には日源の灰骨らしきものと、茶碗、湯呑、盃、土器などがあった。 この塔の刻銘には、やはり弘安六年改宗と刻されているが『本化別頭仏祖統紀』は永仁元年(一二九三)に日源が雑司谷法明寺を去り、当寺を開創したと伝えるから年代的に一致しない。
日源は正和四年(一三一五)の秋に日朗の高弟日を迎えて当寺二世と定め、同年九月一三日に遷化した。
池上本門寺七世日寿(一四三一-五二)は一三歳で出家して間もなく当寺で勉学したと『当門徒継図次第』に記してあるので、室町期にはおそらく談所であったと思われる。
また池上と近接する関係からか両寺の柄は極めて親密であったらしい。 同寺に伝存する文一七年(一五四八)の世田谷領主吉良頼貞の判物をみると、本門寺とので紛争があり、当寺に対する干渉を制しているから、両寺で何らかのトラブルが生じたことが知られる。
なお現存する当寺の釈迦堂は都内には数少ない室町期の建造物で、の重要文化財に指定されている。
正一三年(一五八五)には吉良氏朝が村内七町四方の地を当寺に寄せ、同一八年、豊臣秀吉の制礼をうけて、武相における七五ヵ寺の檀林とされた。
翌一九年には徳川康が一九石の朱を与え、境内三万坪、坊舎一六、末寺七五ヵ寺という大寺院に発展する。
ところが一一世日進が、慶長一八年(一六一三)に京都妙覚寺日奥に呼応して不受不施義を唱え、同派の関東における一大拠点となってから寺運は一変する。
日進は寛永七年(一六三〇)の身池対論で池上日樹らと不受不施義を主唱し、信州上田に謫居を命ぜられ、次いで一三世日晴も承応元年(一六五二)の不受派の法乱で加賀金沢に流となった。
寛文五年(一六六五)七月、幕府は寺領状交付の際に各寺は恩によって地領を受領するという御請書の提出を命じた。 これは不受派の寺領に対する解釈と正反対のもので、法華を信じない幕府から国恩による供養施物として田畑を拝領することは謗法ということになる。 不受派の寺院は一宗の存亡として困惑した。
一四世日禅はこのとき小湊誕生寺日明、谷中感応寺日純らの、悲田供養として朱を頂戴するという妥協案に与同して、朱の交付をうけた。 しかし、この結果悲田派と称されて受派、不受派の両派から批判をうける存在となった。
元禄四年(一六九一)頃から幕府は悲田派を不受派同様とみなし、禁として禅圧するようになる。
一九世日附ら悲田派は幕府に起請文を捧げて処刑の延期を願い出たが、同一〇年頃までは不思議にも何もなく、ただ謹慎という程で過ぎた。 しかし翌一一年一一月一二日、ついに日附は遠流、法華寺は谷中感応寺と共に御取潰しと決まり、祖師像堀之内妙法寺に遷座され、天台宗に改宗を余儀なくされた。
この頃の同寺の末寺で、いまもわかるものを列挙すると、浅草長照寺、同蓮光寺、谷中感応寺、同領玄寺、同妙林寺、四谷法光寺、高田感通寺、同清応寺、牛込大通寺、西久保長耀寺、赤坂正覚寺、白金妙円寺、中目黒正覚寺、雪谷円長寺、道々槁樹林寺、衾常円寺、同龍源寺、堀之内妙法寺などである。
なお保五年(一八三四)に天台宗経王山文殊院円融寺と現在の寺名に改めた。
《『碑文谷誌』、『日蓮団全史』上、『禁制不受不施派の研究』、『寛文不受不施寺帳』、『風俗荏原風土記』、『日源上人とゆかりの寺院―日源上人第七百遠忌記念―』》

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