妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

正中山流祈祷

しょうちゅうざんりゅうきとう #3657

正中山流祈祷

しょうちゅうざんりゅうきとう

中山法華経寺開基・常修院日常(富木常忍)が日蓮聖人の祈祷に対し特に関心を寄せていたことは、一如院日重(身延山二〇世)の『御祈祷経聞書』に「(師、山光院日詮)仰せに云く諸門の中に中山に別して切紙相承の多きことは大田乗明の被官に及河宗秀と云がありし也。 (略)日常より御高祖のの御使を任せらるる也。 此人賢き人なれば種々の法門を祖師へ問い申し置き日常、日高へ伝え申す故に相承多き也」(「日高申状」=正中山相承旨帰も同文=『宗全』第一巻四七頁)、とある。 第二世日高が正安四年(一三〇二)下泰平、異敵降伏の祈願を行い正和三年(一三一四)の日高譲状には「祈祷に於ては先例に任せて勤行し奉るべき者也」(前掲書五〇頁)とあり、第三世浄行院日祐も延文三年(一三五八)の譲状に「御祈祷に於ては先例に任せて緩怠無く勤仕せしめ精誠致す可き者也」(前掲書四三九頁)とあって、初祖以来三代に渉る祈祷に対する関心は当然其後の歴代貫首に受継がれ、祈祷修法の口伝書等の蒐集にも力を入れたことは正中山流の名称となって、聖人門下の各門流の祈祷相承に先鞭をつけたのである。
南北朝を経て室町期に入ると京畿における華々しい布教伝道の成果の一端を修法布教が担っていることが、祈祷相承の再認識につながったのであろうか。 正一九年(一五九一)に正中山一〇世日俒は今迄貫首一人の伝承であった正中山流祈祷法を公開し「貫首は尊貴にして、貧賤を救はんとしても意に任せず、このこと蓮祖の御本意にも背くこと故、特に祈祷法を器許された者は貧窮の大衆を救わねばならぬ」(祈祷一派制規より取意)といっている。 この修法公開をに日俒は退隠し、四院家の法宣院・浄光院・本行院・安世院と相談の上、修法の伝授は貫首に、修行場は本山に残し、相伝書の保管と相伝務は院方、特に浄光院に置くことにした。 その二年後京畿三本山(京・頂妙寺・本法寺・堺・妙国寺)の貫首が三年交替で正中山の貫首となる「輪番制」が徳川幕府の定めるところとなったのである。 この制に対し院側が初めから反対の立場をとったことが正中山祈祷相承にも影響し、相伝書保管の院家方の向背不常のため、貫首側である京畿方面の祈祷僧の養成に支障を来たしたことは、正中山第二五世行嶽院日長(一五八三-一六三九)が弟子の智泉院一〇世日住に命じて、智泉院を加行道場に指定したことによっても推察することができる。 智泉院行堂は日長寂後六年目の正保元年(一六四四)に開堂された。 院側も正中山二四世真如院日逮に懇請し、その加行場ができたのは日逮の寂した寛文一〇年(一六七〇)のことで円立と号した。 院方は自らの保有する正中山祈祷法を「当流の祈祷」とも称しているが、ここに正中山流祈祷には智泉院と円立坊(遠寿院日久以降遠寿院流)の二流ができたのである。 円立初代は中山泰福寺七世経王院日詳(一六〇八-七八)。 二代は柴又題経寺歴、泰福寺八世正院日遼(一六二二-一七〇八)で、三代目は日遼の弟子遠寿院日久であった。 日久は浄光院一〇世法性院日諦について加行し、その後三ヵ年間に身延山及び七面山に七度登詣し、雲切木剣で有名な満行院日順の指導を受け修法成就しているが、日久の修法に対する研究は『御苻抄』を修法の師日諦と共に解説し『法華顕妙抄』と改称し『本覚五神法』等の著書もあり、「当流の修法」を完成したのである。 円立は日久の徳を彰し、彼の院号をとって遠寿院と改称されている。
智泉院一〇世日住については「祈祷の条目を定めた初祖」とあるのみで、その伝書は正中山流のものとは言え京畿地方の修法布教の状態を反映して、実際に基づいて京畿風の解釈が加えられているのが特色である。 江戸文化爛熟の化政期に当っては両院共に栄えたのであるが、保一二年(一八四一)智泉院は幕府政争の余波を被むり一修法停止を受けている。
幕末慶応四年(一八六八)四月二〇日、法華経寺山門前の出火により両院とも烏有に帰している。
明治新政府は明治七年(一八七四)六月七日、管長宛に祈祷伝法の執行に対しての公許状に当る「達書」の通達があった。 これに対し正中山貫首、伝主河田日因は副伝主遠寿院住職朝田日光と共に験者の取締法制と加行規則等を整備し、同九年五月「伺書」を管長新居日薩に提出し、その許可を得たがこの時正式に「加行期を毎年一一月一日開堂、二月一〇日閉堂として一百日の加行を定め」て今日に到っている。 因に智泉院は明治七年自火により再び焼失し明治末年迄再建できなかった。
《宮崎英修「荒行の歴史と日順上人」『日蓮宗の人びと』》

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