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日陣(門一阿闍梨・円光坊)

にちじん #3169

日陣(門一阿闍梨・円光坊)

にちじん

(一三三九-一四一九)
門一阿闍梨円光日陣と称す。
暦応二年(一三三九)に越後瀬波郡加治庄荒川郷で生まれ、父は佐々木高貞、母は今出川兼季の娘妙菊であるが栗原姓を名乗った。
幼名を門一麿といい、貞和三年(一三四七)に越後本成寺代官日龍に師して得度した。このとき九歳である。
延文元年(一三五六)には京都に上り六条本寺日静の学室に入り円光日陳と称するが、日陳をのちに日陣と改める。
同室の日伝と共に台当の奥旨を究める。
延文四年には東北に赴き出羽鳥海山麓猿鞍七堂に入りこの玄妙能化(日什)と交りが御書を通じてあった(『玉龍寺誌』)ようで共に影響を受け、日陣は同五年に鳥海山麓に本水山妙頂寺を建立する。
応安二年(一三六九)六月には日静は日伝に本寺、日陣に本成寺を与えて遷化する。日陣この三一歳である。
創始の越後本成寺は日静に法灯が付与されたが、日静は一生の間に一も下越せず代官を置いていたため勢は萎縮するのみであった。
しかし日陣に付属後、日陣の本格的な布教が始まり、これを日開山当に再現するには一〇年を要した。
康暦元年(一三七九)外に向けての本格的な布教が開始され、まず奥羽・北陸・関東の布教がなされた。引続き、永徳三年(一三八三)に東海地方の布教がなされ、遠江鷲津に入った。
同地方の名刹である真言宗の薬師堂があり、この住持は学僧として知られた真言僧である。
この真言僧は日陣の来遠を知り法論を挑んだ。法論は数十日に及び、論戦の末に真言僧は日陣の論駁に屈して弟子ともどもに改衣する。
住僧は大慈悲院日乗、弟子は東光日円、山田日能と名を授けられ、同地の信徒を一挙に改宗させた。
日陣は薬師堂を改め、常霊山本興寺(本堂は当のものが現存している)と命名し、日乗を主管として法華弘通の大任を命じた。
また日円には東光、日能には古見小山田(現在の正見山本寿寺)に住せしめた。
更に新居の寺僧にも法論を行ったが、日陣の弟子によって八ヵ年の歳月を要し、明徳元年(一三九〇)に帰伏した。
名を日才とし寺を本果寺と名付けた。
日陣の東海地方弘通と期を同じくして日什もこの地方を化し、吉美に妙立寺を建立した。
日陣、日什は共に勝劣の法義に立脚して互いに何らかの影響を与えたようである。
日陣は至徳元年(一三八四)三河に入り日を開山とする尾尼長福寺、和田妙国寺を巡化して、同二年に尾張に進み化弘通を行った。
名古屋の稲生において真言僧と対論し、その住持を論破して名を日秀と改めさせ、その巨刹を妙本寺と改め尾張地方における拠点とした。
日陣の意を受けた妙本寺日秀は嘉慶二年(一三八八)日陣の弟子日存と共に押切において天台僧を折伏して改衣させ、日台と改めて、寺を本能寺(のち慈雲山本龍寺と改めて現在に至る)と名付ける。
尾張布教の後は外面的なものよりむしろ内面的なものに重点が置かれ、応永元年(一三九四)には本成寺規式、禁制の二十ヵ条を制定して聖城の保持と後進の育成を考えた。
ち「一、剃髪之後は万をさしおいて衣をもって昼に継ぎ学文稽古を致すべき者なり。但しその器用にあたわざるの輩においては無二の信心をもって給仕奉公を存ずべきのところ、むなしく年月を送りいたずらに時日を経るの条甚だ以て不可なり。然る間向後堅固此旨を存ずべき者なり」と無二の信心にあることを強調している。
この頃より、日陣の本勝迹劣の養は次第に不動のものとなり、応永三年(一三九六)六月一七日に『選要略記』一巻を著してその立場を明確にした。
同四年より京都本寺日伝との対立が表面化してくる。
日陣は五九歳、日伝は五六歳で共に思想的に円熟した期である。
日陣が上洛して本寺での講説は本迹勝劣論で、日伝の一致論とはあい入れないものとなり、本迹一致勝劣の争いはこの後八ヵ年に及び、双方文書をもって論難を往復した。
中でも応永一一年、日伝の出した五五ヵ条の難問(難勢)と日陣追放状は両師の対立を決定的なものとし、日陣はその難勢にひとつひとつの答釈を行い、同一二年五月三日に『本迹同意決』として著し返書している(上巻は『宗全』第七巻、下巻は『宗全』第二三巻)。
これによって本寺との訣別がなされ、同一三年四月に京都四条堀川に堂宇を設けて、光了山本禅寺と名付けた。
この、日伝の弟子であった本学頭の日登及び学僧の日台は日陣に帰服した。
日陣は本禅寺を京都弘通の本拠として、その責任を日登に付して、自らは越後本成寺にその活動を移した。
しかし、日登に与えた消息の中に「日陣が養には何としても弘通所を取立て末代までも退転なきように思ひたく候へ、是より外の所願なく候、日陣何くに死候へ、魂魄は四条堀川に留るべき候」(『宗全』第七巻)とあり、自らは越後にいても京都の弘通にはかなり留意しており、それだけに日伝に対する意識も強かった。
日陣は本禅寺を建立したことで、本寺とは別派となり、その教義的な裏付として同一三年九月に『本迹二経浅深事』(『宗全』第七巻)を著して本迹勝劣の意義を確立する。
日陣は本禅寺の建立をしたときすでに六八歳、これ以後も老齢をおして弟子の育と地方の布教に当り、応永一六年に日登に与えた消息によると「去年より蒲原に弘通所を立て愚身八月二十五日蒲原へ下候て、正像坊が奔走にて、本は平井の民部と申候しが、旦尼瀬の坊主に成候て、今は柏崎に居候円乗と申をやとひ下し、本迹の問答させて候し、久勝寺にて九月二日に法門申て候(略)」(『宗全』第七巻)とあるように意気はますます盛んとなった。
応永二二年(一四一五)に日陣は本禅寺を日登に付し、同二六年には越後本成寺を日存に付して、その年五月二一日に伝道弘通のため本成寺を出発する。
その後の行動については一切不明であるため、現在この出発のをもって示寂としている。に八一歳である。
日陣以後、本成寺と本寺は完全に別々の存在となり、今までの本成・本両寺中心の時代から本寺を除いて本成寺を中心とする教団となり、ここに日陣門流と呼ばれる本成寺系団が確立する。
特に日陣以後の団確立に最も大きな力を示したのが九世日覚で、『発心共徹抄』、『愚案集』、『偏強観破』、『本迹要文集』等を著述し、学を体系づけて、宗門の准中興、本禅寺中興と呼ばれ、本成寺の発展に大きな役割を果した。
日陣の弟子として主なものは、南陽智賢日存(本成寺四世)、大賢日登(本禅寺二世)、一乗坊日信(越後本福寺開山)、大慈悲院日乗(遠江本興寺開山)、右京阿闍梨日台(本禅寺三世)、妙本寺日秀(尾張妙本寺二世)である。
著書には『選要略記』一巻、『本迹同異決』二巻、『本迹二経実相理浅深事』一巻、『本迹二経浅深事』一巻、『本迹同異集』四巻、『本迹勝劣集』一巻、『信師御写書』一巻があり、消息文は現在三七通が集録されている。
《『宗全』七・二三巻、『日蓮団全史』上、『開祖日陣聖人の研究』、『本興寺誌』、宗門史編『法華宗々学提要』、『日本仏教人名辞典』「日陣」の項、『国史大辞典』一一巻「日陣」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』
(都築哲二)

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