大石寺(静岡県富士宮市)
大石寺(静岡県富士宮市)
たいせきじ
静岡県富士宮市に所在。
大日蓮華山と号す。
日蓮正宗総本山。
開山は六老僧の日興(一二四六-一三三三)。
日蓮聖人は示寂に先立つ弘安五年(一二八二)一〇月八日「本弟子」六人を定めた。
のちに六老僧と呼ばれる人達で、聖人滅後身延の御廟はこの六老僧を中心に輪番制で守護されることになった。
しかし主だった弟子達は各地において幕府の圧力と闘いながら布教に力をつくし、教線の拡張に努めていたために、聖人の三回忌の頃には既に思うように登山できなくなっていた。
そこで弘安八年の末頃より、日興が身延山を寄進した南部実長などの同意を得て身延山に常住するようになった。
ほどなく同じ六老僧の一人である日向も登山し、日興が院主、日向は学頭として身延の経営に当るようになった。
しかし純信一徹で厳格な日興と温和で寛容な日向との両者の相反する性格は、実長の教導方法に端を発してやがて対立することとなった。
実長は厳格な日興から離れて寛容な日向に帰依するに至り、遂に意を決した日興は正応元年(一二八八)弟子を引連れ身延を離山した。
駿河(静岡県)に移り、南条時光の外護によって正応三年大石ケ原に草庵を結んだ。
これが大石寺の濫觴である。
更に近くの重須に本門寺を開創して永仁六年(一二九八)これに移り住んだ。日興はここに重須談所を開き、弟子の教育に心血を注いだ。
多くの人材が輩出したが、中でも日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗の諸師は本六人、また日代・日澄・日道・日妙・日毫・日助の諸師は新六人と称せられて門流の中心となって活躍した。
日興はこうして約四〇年にわたり大石寺・本門寺を中心に門下の育成や弘教活動を展開し、富士門流形成の礎石を据えて、正慶二年(一三三三)日目に大石寺を、日代に重須本門寺を譲り、日目にはは上洛天奏のことを遺命して、二月七日、八八歳で重須本門寺に寂した。
その遺志を奉じた日目は、上洛天奏しようと日道を大石寺の留守役に任じ、日尊・日郷を随えて上洛の途についた。
七四歳と高齢であった日目は途中病を得て倒れたが、日尊と日郷はその遺志を継いで天奏の役を果した。
富士に帰った日郷は留守役日道と大石寺の法燈を争ったが、南条氏の外護もあって日道が延元元年(一三三六)大石寺を継承し四世となった。
即ち日蓮聖人を第一世として〈日興―日目―日道〉と次第することになったのである。
この間にあって門弟達によって蓮蔵坊・少輔坊・理境坊・上蓮坊・寂日坊・蓮仙坊・久成坊等の支院が建立されていった。
寛正六年(一四六五)宝蔵建立。
永正八年(一五一一)一〇月諸堂焼失。
大永二年(一五二二)総門建立。
享禄二年(一五二九)三月今川氏輝は殺生狼藉・竹木伐採を禁じ、永禄三年(一五六〇)今川氏真は諸役を免除し、天正二年(一五七四)九月武田勝頼も今川氏の先例を追って寺中の規矩法度を定めた。
寛永年中(一六二四-四四)には敬台院によって御影堂が建立され、次いで徳川第六代将軍家宣の室天英院の帰依をうけて諸堂が建立されていった。
大石寺中興日寛は享保三年(一七一八)二六世の法灯を継ぎ、三年にして日養に譲り蓮蔵院に退いたが、日養が寂するや再び席を董し、享保一二年常唱堂を完成、石之坊等を造建した。
日寛は博学宏才にして『六巻抄』等を著し、大石寺の教義法式等を組織し、教学を盛んにし門下を育成した。
そして日寛の起塔の志をうけて三一世日因代の寛延二年(一七四九)に五重塔が建立された。
大石寺は江戸時代に六六石八斗五升余の寺領を有した。
明治九年(一八七六)大石寺は北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺・下条妙蓮寺の富士五山と房州妙本寺・伊豆実成寺・京都要法寺と共に興門派八本山の一つとなったが、明治三三年独立して富士派と称し、更に明治四五年日蓮正宗と改めた。
信徒団体に創価学会があり、その外護によって伸張著しく、奉安殿・大講堂・大化城・総坊・大客殿・総門などが寄進され、昭和四七年(一九七二)には正本堂が建立された。
寺宝に南条氏あての書簡など日蓮聖人の真蹟、日興ほか諸師の遺墨等多数を蔵する。
《宮崎英修「大石寺外護者敬台院夫人」『続・日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』『国史大辞典』八巻「大石寺」の項、『日興門流上代事典』「大石寺(駿河)」の項》