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大正期の教団

たいしょうきのきょうだん #1349

大正期の教団

たいしょうきのきょうだん

(一)人材の輩出。
明治期の新居日薩・田中智学・本多日生らの為教為人捨己挺身の長期講習布教、大量の施本等による宗義の教育普及、及び活動、特に「本化妙宗式目講義録」の出版などによる人材の輩出を見た。
宗政界の佐野前励(一八五九-一九一二)・酒井日慎(一八五四-一九四四)・山田日真(一八七四-一九六六)・馬田行啓(一八八四-一九四五)・石橋湛山(一八八六-一九七三)、布教家に旭日苗(一八三三-一九一六)・林鳳宣(一八六三-一九三一)・長尾栄進(一八六八-一九四二)・柴田顗秀(一八七八-一九四三)・湯川日淳(一八七七-一九六八)など教学の興隆宗義の布教活躍があり、更に教団内に布教団の結成を見、青年学徒により各大学内にあるいは各地に日蓮鑽仰会・天晴会等が出来て、学界・政界・軍部の間に有力な信仰団体が涌起した。
(二)宗門精神興起の状況。
明治四一年(一九〇八)宗学の泰斗本間海解(一八五七-一九〇八)遷化以後宗学界は空白状態、ために日蓮宗大学の宗学部生は授陣の貧弱を訴えるに至った。
本期初めに至って宗門精神の曙光が見られた。
大正二年(一九一三)総監神保辨静(一八六八-一九三七)は『聖人真蹟写真』、北尾日大(一八七五-一九四六)は『本化宗学綱要』、磯野本精(一八七六-一九七〇)は『日蓮宗教義大意』、清水龍山(一八七〇-一九四三)は『偽日蓮義・真日蓮義』を、身延祖山学院教授吉田素恩は大正五年『本尊法体論議変遷史論』を、清水梁山(一八六四-一九二八)は同六年浅草統一閣に「本化聖典研究会」を、田辺知(一八七〇-一九三三)は大崎会館に「本化習会」を開く。
同七年(一九一八)稲田海素(一八六九-一九五六)は「宗学書」の目録を富田海音(一八六〇-一九二三)は「宗学全書刊行会」を興し、関東震災に先だって「宗宝調査会」が結成され、「中山聖教殿」の起工も大正一四年であり「宗章紋」の制定は大正八年、清水龍山・田辺善知・本多日生らの間に本尊論が交換されたのも大正の晩年であった。
このように祖書宗義が宣揚されたことによっていかに宗門精神が興起したかがわかる。
(三)この高まった精神こそが猛烈な布教活動を振い起させた。
もっとも布教師養成のことは明治三八年(一九〇五)東京大崎日蓮宗大学林内に附設、旭日苗・星野旭泰(一八八一-一九六〇)が出講し、その翌年宗務院は同大学林に講習会を開きまた布教師養成所を布教院と改称し規則を定め、この講習会と布教院とはのち年中行事としてながく大正年間につづき、また田中智学の三保の最勝閣・本多日生の東京浅草統一閣は共に両者の布教道場となった。
大正期の布教状況で注目されるのは有志が団結して布教活動に立ち上ったことで、例えば北海道布教会・東京布教団・身延布教会・日蓮宗青年協会など。
社会業史の面で本期は全日本の社会業の成立期といわれるほど盛んであるが、教団は大正六年ソビエト革命成立に影響された国民思想の善導を志した本多日生は、有楽座に自慶会発会式をあげ、山田一英(日真)らは免囚保護の慈済会を通じて教団信仰を伝うべく、また社会教育機関の学校を通じて祖師の啓発精神を伝うべく聖誕七〇〇年(一九二一)を記念して大阪に明浄高等女学校、京都に明徳高等女学校、また風間随学を中心として新制立正大学の設立、これを広く一般にその門戸を開放したのも祖師の精神を普及させる意に外ならぬ。
また明治の末以来たびたび聖人主題の劇が上演され、大正八-九年森鴎外の『日蓮聖人辻説法』・坪内逍遙の『法難』など、田中智学の聖史劇・宇都宮主計之助の統一節巡回興行などがしきりに行われたことは、反面信者の増加を物語っている。
また聖人へ立正大師号宣下のことは本多日生らの社会教化の誠実と努力、また木内重四郎・東郷平八郎らの有力信者の請願進言があずかるところあって、遂に大正一一年奉戴することとなった。
(四)思想対策運動。
威の伸張につれ民の外との交渉、また大正六年のロシア革命の影響もあって、反政府思想運動が、関東大震災をきっかけに大正一二年一二月難波大作による東京虎ノ門摂政裕仁狙撃変があり、政府の精神作興運動に対し教団有志の僧俗は大正一三年国本会を発起してこれに応じた。
以上要するに本期の初期には宗義学者の断絶に窮したが、程もなく宗学者の著作の発表を得て次第に考究の進路が開かれ、思想や活動の上に宗門意気の盛り上がりを見、社会事業に教育事業にと信仰普及が一般長幼の各層に及び、特に大正の中ごろからは布教の対象が幼童に移行したことは、さいさきのよい傾向を示した代であった。
なお大正一四年房州(千葉県)清澄山旭森に日蓮聖人の銅像が建立せられ、宗務当局が初めて立教開宗会をここで奉修したが、二五年後の昭和二四年(一九四九)清澄寺の本宗へ改宗を達成したことを思えば、この銅像建立は改宗の遠因をなした観がある。
なお本期には彼の奉献本尊の論義が激しくかわされたことを付記せざるを得ない。

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