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清澄寺(千葉県鴨川市)

せいちょうじ/きよすみでら #3998

清澄寺(千葉県鴨川市)

せいちょうじ/きよすみでら

千葉県鴨川市清澄に所在。
日蓮聖人出家立教開宗された寺。日蓮宗霊蹟寺院。山号は千光山。
清澄寺縁起」によれば、光仁天皇の宝亀二年(七七一)不思議法師が開創し、中絶後、承和年間(八三四-八四七)に慈覚大師円仁が再興し、更に嘉保三年(一〇九六)雷火により伽藍焼失し、司源親元が再建。
日蓮聖人在世の頃の清澄寺は叡山横川系の流れをくむ天台宗所属の寺院であった。
聖人は天福元年(一二三三)一二歳の時、この寺に登り、一六歳で道善房を師として出家
同じく道善房を師とする義浄房・浄顕房の兄弟子から初等教育を受け、一七歳の時には円珍仮託の『授決円多羅義集唐決』を道善房の房舎で書写し、また「法然、善導等が書きおきて候ほどの法門は、日蓮らは十七・八の時より知りて候き」(定三二六頁)と記するように、道善房浄土を学ぶなど、その傍にあって修学に励んだ。
しかし聖人の修学が深まると共に、聖人の疑問に解決を与える人師は都から離れたこの清澄寺にはいなかった。
以後、聖人は求道の旅に出て鎌倉・叡山・三井・高野・天王寺等に修学の年月を送り、法華経の持経者としての自己を確立し清澄寺に帰省する。
そして建長五年(一二五三)四月二八日、清澄寺内持仏堂の南面にして、つまり法華経の教主釈尊像を背に寺内の大衆に、自己の体得した法華最第一の立場に立つ法華信仰を宣言し、行動に移した。いわゆる立教開宗である。
しかし当清澄寺には浄土教(叡山浄土教と考えられる)が波及していた。師道善房はもとより寺内の僧衆、在地の有力者地頭東条景信もまた熱烈な浄土教の信奉者であった。そうしたなかでの法華信仰の強調と浄土教の批判、加えて領家の尼と地頭東条景信との土地争いに、聖人が領家の尼に味方して、景信を敗退させたことから、景信および寺内僧衆の怒りをかい、ついに清澄寺から追放される。
その後、文永三年(一二六六)正月、清澄寺で『法華題目鈔』を著しているが、以後、清澄寺には足を踏み入れていない。
しかし、清澄寺内外の帰依者に対しては、最後まで書状をもって法華信仰を勧奨している。
なお清澄寺は昭和二四年(一九四九)二月一六日の聖辰をもって、日蓮宗に帰属した。
しかし、それまでは新義真言宗の寺であり、また教団の諸文献が、日蓮聖人当時の清澄寺は真言宗であるところから、聖人の出家当時もまた真言宗の寺と考えられてきた。
聖人滅後七〇年頃の偽書『本門宗要鈔』に「師道善房の御房に値い奉りて、東寺家の真言を習学すること三年」とあり、これによった室町期成立の『日蓮聖人註画讃』、更に『日蓮聖人註画讃』に依り成立した近世の『本化別頭高祖伝』『本化高祖年譜』等、いずれも真言宗の寺とする。
これに対し聖人出家された頃の清澄寺は、天台宗所属の寺院であり、聖人滅後、真言宗に変ったことを論証したのが、清水龍山山川智応氏の論文である。
両論文は明徳三年(一三九二)八月の清澄寺主弘賢僧正の手になる清澄寺鐘名および『本門宗要鈔』の記事から、清澄寺は聖人滅後七〇年前後の頃には真言宗に転じ、弘賢僧正以来、醍醐三宝院流に属し、近世に入って元和四年(一六一八)智積院の学僧仲恩房頼勢が入寺して以降、新義真言宗智山派に所属して昭和に至ったことを明らかにしている。
と共に清澄寺は安房上総の総氏寺として鑁阿寺等と同格の大寺であったことをも指摘している。
従って清澄寺は聖人の出家当時、叡山横川系の流れをくむ天台宗所属の寺院であり、成人はそこで出家台僧としての第一歩を踏み出したことが明らかとなる。
清水龍山「清澄寺宗旨考」『日蓮上人の生涯』、山川智応「清澄寺宗旨の変遷とその寺格位地を考ふ」『日蓮聖人研究』一巻、『遺文辞典』歴史篇「清澄寺(きよすみでら)」の項、『日蓮辞典』「清澄寺」「義浄房」「浄顕房」の項、『日蓮聖人典』(雄山閣)「千葉」の項

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