是名持戒
是名持戒
ぜみょうじかい
法華経宝塔品の偈頌中の文で、一連して「この経は持(たも)ち難し。もし暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。かくの如きの人は諸仏の歎(ほ)めたもう所なり。これ即ち勇猛なり。これ則ち精進なり。これを戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」と説く。
即ち法華経を持つ者こそが、戒を持ち、頭陀(煩悩を払って仏道を求める為の少欲知足の苦行)を行ずる者であるということ。
これは、実大乗である一乗妙法蓮華経の受持をもって戒法となすことから、一乗戒と称される。
宝塔品では余の経典を受持することも容易ではないが、法華経を受持することの困難に比べれば容易であるとして、六難(説経難、書持難、暫読難、説法難、聴受難、奉持難)九易が数えられ、この一乗戒が説かれる。故に法華経を信受念持不惜身命に修行するという一乗戒は、戒の数こそは少ないが、五戒・十戒・二百五十戒等という戒に比し、非常に難しい戒といわねばならない。
ところで、この一乗戒は余経の戒と比しその内容をいささか異にする。
余経では戒とは防非止悪の意味で、身体に行うところ、口に述べるところ、心に思うところで、全て成仏の障りとなることを避けることを指し、全て何々するなかれということであった。
しかし宝塔品では、法華経を持つことを戒と称する。
これは「仏欲以此妙法華経付属有在」(仏はこの妙法華経をもって付属して在ることあらしめんと欲するなり)、「令法久住」(法をして久しく住せしめん)という仏の本願を継承して、自己を法華経の必然の等流史の中へ企投することを意味する。余経で戒を持ったのは、煩悩を滅し仏になるためであったが、それが成仏できないとするならば、その戒はむなしいものといわねばならない。
日蓮聖人は『一代聖教大意』で「我等一戒をも受けざるが持戒の者と云はる文」(定七〇頁)として、この「是名持戒」の文を挙げるが、余経については、「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば、仏に成らんと願うには必ず九界を厭う(略)煩悩を断じ九界を厭て仏に成んと願うは、実には九界を離れたる仏なき故に、往生したる実の凡夫もなし」(定七三頁)と成仏を否定する。
さて宝塔品で持つべき教として示された妙法蓮華経は、寿量品で、その内容が「如来秘密神通之力」で、色(戒)・香(定)・味(慧)を具足する「是好良薬」であることが明かされる。
聖人はここから「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(『観心本尊抄』定七一一頁)と述べる。
聖人は宝塔品で「此の経を持つ」と示されたことを、妙法蓮華経の五字の身・口・意三業受持に置き換えたのである。
また聖人は右の文につづいて、「釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり。その跡を紹継しその功徳を受得す」(定七一二頁)と説くが、ここからは釈尊の慈悲行の実践が妙法蓮華経の受持であり、また一乗戒となることが理解される。
聖人は『本尊抄』に「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(定七一七頁)と一大秘法を明かし、後に三秘(本門本尊・本門題目・本門戒壇)を示されるが、この中、本門戒壇は妙法五字の三業受持によって成就される。
《『遺文辞典』教学篇「是名持戒」の項》