日高(帥公)
日高(帥公)
にちこう
(一二五七-一三一四)
中山法華経寺第二世、日蓮聖人面授の弟子で、帥(そつ)公と称される。
聖人の有力な檀越であった大田乗明の子息ともいわれる。
日高は師の聖人が身延に隠栖された時、側近に侍って修学・修行にいそしんだ。いわばその修行時代を聖人のかたわらで送った僧である。
聖人御遺文の『弁殿御消息』によると「ちくご房・三位・そつ等をば、いとまあらばいそぎ来べし、大事の法門申べしとかたらせ給へ」(定一一九一頁)と、聖人から弁殿(日昭)に伝えられている。
帥公とは日高のことを指すという事実は、中山法華経寺に伝わる「日常置文」にみられるから、これを疑うことはできない。
従って日高は身延において、筑後房・三位らと共に日蓮聖人から「大事の法門」を伝授された、面授の弟子として重要な立場にたっていた。このような日高の姿は、のちに彼の聖人への給仕の態度として宗門に語り伝えられていった。
日親はこれを受けて『伝燈抄』において次のように述べている。
「日高聖人ノ御事ハ高祖聖人ノ御直弟ニテ、殊ニ聖人様御哀隣モ細カニ、高祖聖人ヘノ御奉公モ異㆓ 干他㆒、 然則聖人身延山ニ御隠居シ給シ比ハ(略)、常随給仕ノ為御祗候アツテ、一千日ノ間一日モ不レ 闕、八箇ノ給仕ヲ成シ進ラセ給ヒキ、(略)其ノ八種の給仕トハ、山ヲ分テハ薪ヲ拾ヒ、流ニ臨ニハ水ヲ汲ミ、朝朝暮暮ノ香華燈明、室外ノ掃除等、曽無レ 懈、其外暁起ノ御手水、霄霄ゴトノ御洗足、カリソメニモ無レ 倦、初番二番ノ上下ニ至ルマデ一千日ノ行功アリシカバ、聖人御印可無レ 限、(略)今ノ帥殿ノ志、更ニ無㆓ 比類㆒ 、生生世世難㆔ 忘コソ侍レトテ、法衣ノ御袖ヲヌラサセ給」。
この伝えには多分の誇張もあるであろうが、中山法華経寺において日高の日蓮聖人に対する常随給仕の行動と、それ故に許された法門の直接的伝授の事実が、いかに高く評価されていたかを窺うことができる。
更に弘安五年(一二八二)一〇月一三日に聖人が入滅されると、その翌日行われた葬送の列に、日高は後陣として随っている。
一方、日高は富木常忍(後の日常)と共に下総国(千葉県)における聖人の檀越の中心的存在であった大田乗明の子息と伝える。
乗明の邸は富木常忍の邸から一キロばかり離れた八幡庄谷中郷中山に構えられていた。今の中山法華経寺の境内がそれで、堀の跡もわずかに残り、武士の館を思わせる。日高は父大田乗明の館内持仏堂に居住し、これを本妙寺として発展させたという寺伝に間違いはないであろう。
このように日高が日常と師弟関係を結び、その後を受けて中山法華経寺第二世となり、教団の指導権を握ったのは、聖人面授の弟子としての彼の声望と、大田乗明の子というその立場によるものであった。
そして日高は中山の本妙寺に常住し、法華寺の貫首を兼帯することによって教団を統率していく。
本妙・法華両山一主の制は日高の代から始まり、従って後世における中山法華経寺の体制はここに整えられたのである。
こうして日高が中山法華経寺の第二世貫首に就任したのは、初代の日常が入滅した永仁七年(一二九九)のことである。
貫首としての日高にとって、まず守らなくてはならないことは「日常置文」の旨を守って、教団をりっぱに運営していくことである。実際に彼がどのような方針を打ち出したかは詳細には分らないが、中山法華経寺に伝わる文書等によって、その一端を窺うことができる。
日高はまず日蓮聖人と日常の後継者としての立場を自他ともに確認する必要があった。
その第一は日蓮聖人の多くの門弟らが行っているように、聖人が生命をかけて敢行した国家諫暁を自らもこれを実行しようと用意のために申状を作成することであった。いま中山法華経寺には日高が正安四年(一三〇二)三月に著した「申状案」と、これに添えて提出すべき『立正安国論』の写本が伝わっている。
このように貫首としての日高は、いつ何時でも聖人の宗教行動を諫暁という形で再体験するだけの心構えをもっていなくてはならなかった。
それゆえにこそ日蓮聖人の正統を継ぐ者としての自己を主張できたのである。
一方、日高は法華寺と本妙寺に伝わる寺領に加えて、新たに千葉胤貞から所領の寄進を得て、中山法華経寺の寺領を確定している。
特に下総国千田庄(千葉県香取市多古町)に寺領を設定し得たことは、千葉氏との関係を考える上で重要な意味をもっている。
また、これらの寺領には進止権を中山法華経寺が握る宗教施設が形成され始め、後の末寺が現れ始めている。
このように日高の時代には教団の物的整備への第一歩が踏み出されたことを注目しなくてはならない。
日高がこのように寺院体制の整備や経済的基盤の確立に向けての基礎づくりを始めることができたのは、千葉胤貞を俗別頭に迎えたからである。千葉胤貞は房総の雄族として聞こえる千葉氏の庶流として穏然たる勢力を持っていた。
日高が正和三年(一三一四)に没する直前に認めた「置文」一通と「譲状」三通には、いずれも貫首日高と並んで千葉胤貞が加判している。
しかも「日高置文」には「此置文を書き置かると雖も、僧鶴林(臨終)に及び、御判形能わざるの間、胤貞加判し畢ぬ」とある。
ここに見られるように千葉胤貞は俗別頭として貫首と並ぶ権限をもつと共に、中山法華経寺はその後楯によって教団の急速な発展を実現していこうとする。
日高は正和三年四月二六日に没するに及んで置文を定め、日裕を始めとする弟子たちに後事を託し、僧俗一致和融して教団の維持発展をはかることを遺言した。
更に末寺の僧たちは中山法華経寺の貫首に背いてはならないと規定し、貫首の絶対的な地位を確認すると共に、その支配下における教団の体制を確立したのである。
かくて中山法華経寺の貫首職にあった日高は教団における最初の基礎造りという重大な役割を果して、正和三年四月二六日、俗別当千葉胤貞を初め一門の僧俗に見守られながら入滅した。
彼が世を去ることによって、中山法華経寺の教団からは聖人面授の弟子が消えてしまうことになる。
このような重要な局面の転換に当って千葉胤貞の猶子日祐が、第三世の貫首職を襲ったのである。
日高は父大田乗明が日蓮聖人から受けた消息、母(法名経女)が受けた消息を厳重に保管し、これらを本妙寺分として三世日祐へと引き継いだ。このことは『日祐目録』に示されている。
《『遺文辞典』歴史篇「日高(にちこう)」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「日高」の項、『昭和新修』別巻「帥公日高」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項》