妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日頂(伊与阿闍梨)

にっちょう #3192

日頂(伊与阿闍梨)

にっちょう

(一二五二-一三一七)
日蓮聖人の高弟、六老僧の一人。
伊与房のち伊与阿闍梨と称された。
駿河(静岡県)重須に生まれ、富木常忍の養子となり、幼くして当時天台宗に属した真間弘法寺で出家
のち日蓮聖人の門に入り行学に励む。
文永八年(一二七一)九月の竜口法難に続く佐渡流罪には日興と共に自ら渡島し流謫中の聖人に随侍する。
文永一〇年配所の聖人から富木常忍宛の書状に「伊与房は機量物にて候ぞ、今年留候ひ了んぬ」(定七四三頁)と書き送ったように、聖人は早くから日頂の資質を認めていた。
佐渡では、のち日頂門下の一人である但馬阿闍梨日宣といわれた台僧を化改宗させたという。
身延入山後も聖人に常随給仕して修学に励んだが、弘安二年(一二七九)一一月、身延の聖人は富木女房へ「いよ房は学生(がくしよう)しになりて候ぞ。つねに法門きかせ給候へ」(定一七一〇頁)と書き送り、また弘安四年には富木常忍にも「伊与殿の、存外の性情、智者也。当学問隙無し」(定一八八九頁)と、その修学ぶりと日頂の資質が開花したことを報じている。
聖人は示寂に先立つ弘安五年一〇月八日、のちに六老僧と呼ばれる本弟子六人(弁阿闍梨日昭・大国阿闍梨日朗・白蓮阿闍梨日興・佐渡公日向・伊与公日頂・蓮華阿闍梨日持)を定めた。
日頂も若くしてその一人に加えられたが、それは日頂の資質と共に有力檀越のいる下総団の中心に日頂を据えることを意図されたのではないかと考えられている。
聖人示寂前後には富木常忍のもとに至り、常忍が弘安元年九月頃に天台僧了性を論伏して改宗した真間弘法寺を拠点に、大田乗明曽谷教信金原法橋らの助力を得、下総団の主力としてその線を拡大。
正応四年(一二九一)三月には申状を捧げて幕府に諫暁し、同五年には、浄土宗良実に公場対決を迫るなど活躍した。
しかし、その後富木常忍との関係が化したため、常忍と訣別し弘法寺を去る。
その由として早く日親の『伝燈鈔』は、若宮の法華寺で聖人の三回忌法要が行われた時、日頂が宗論のため遅参したので、常忍が怒って勘当したという。
しかし日頂は聖人の葬送の時も、翌年正月の百ヵ日忌の時も欠席しており、勘当の理由としては弱く、更にこの三回忌の年より八年後の正応五年まで弘法寺で活躍しており『伝燈鈔』の所伝は妥当を欠くとされている。
また弘法寺俗別当及河七郎宗秀が、その子兵部阿闍梨日揚に同寺を相続させようとして、富木常忍に讒言し、日頂を追放させたとする弘法寺の所伝や、また幕府が弘安の役後、諸宗諸山に敵国降伏の祈祷を命じ、日蓮教団に対しても、もし祈祷をしないならば諸堂を破却し鎌倉から追放すると脅したため、遂に鎌倉五老僧は祈梼の巻数を差出し、その難をまぬがれた。
この件は弘安八年頃の件であるが、しかしそれは日蓮聖人の法華信仰のあり方の後退であり、そしてその中に日頂もいた。
従って富木常忍は、それを不満とし、日頂に代って下総の教導に当ったのではないかとする考えも出されている。
しかしいずれにしても、日頂が下総から疎外された由は明確でない。
弘法寺を去った日頂は生駿河重須に至り、その地で没したとされる。
重須談所学頭、寂仙房日澄は弟にあたる。
《影山堯雄『開山伊与阿闍梨日頂上人と真間山』、『日蓮教団全史』上、高木豊『日蓮とその門弟』、中尾堯『日蓮宗の成立と展開』、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『遺文辞典』歴史篇「日頂」の項、『昭和新修』別巻「伊予房日頂」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と六老僧」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『史大辞典』一一巻「日頂」の項》

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