日詔(自證院・自性院)
日詔(自證院・自性院)
にっしょう
(一五六九-一六一七)
池上・比企両山一四世、字は無問、自證院・自性院と号す。
永禄一二年に備中国山田の太田家に生れ、飯高檀林に学んで蓮成院日尊に師事した。
従って学風は祖本主義の不受不施論を継承する。
天台学においては中国の四明らの山家正統説を支持し、関西学派が重用する浄覚らの山外正統説と対立するものであった。
夢中の出来事という伝承であるが、日詔がある夜飯高の林間を散策していると、目前に一老僧が現れ、山家・山外論争の中核である観心論について問答を求めた。
問答数次におよび、老僧は憤然として色をなし、微に入り細をうがって山外説を主張したが、日詔も屈せずに応酬した。
そこで日詔が老僧に名を尋ねると、浄覚と名乗って姿を消したという。
その問答の場所を今に無問谿とよんだ。
以来日詔の起居に不思議なことが多くなったが、学問をやめて法華経読誦三昧に入るとその恠異も消滅したと伝えられるが、これは不受論に反対する者の意見であろう。
慶長七年に日詔は小西檀林へ招かれて二世の化主となった。
翌年師範の両山一三世日尊が遷化し、両山の大衆は挙げて日詔を一四世に屈請、時に三五歳の若年で入山する。
両山に晋董後の事績はまことに目覚しいものがある。
まず加藤清正が母の七回忌追福のため、慶長一一年に間口二五間、奥行二三間という祖師堂を寄進した。
この堂は大堂と通称されたほど大きな規模のもので、芝増上寺の小堂、上野寛永寺の中堂、池上の大堂と俗称されるほどであった。
とくに桁行が三三間もあり、大男の清正が兜をかぶり、騎馬したまま浜縁を通ることができたとも伝えられる。
翌一二年には徳川家康の四男で、尾張国を領した忠告が江戸で没し、芝増上寺へ諸宗の僧侶を出仕させて諷経させることになった。
不受不施義を主唱する日詔も出仕を命ぜられ、諷経をしたが、日蓮宗を信奉しない謗者である幕府からは布施供養を受けないと主張して、施物を拒否した。
幕府もその主張を了解したためか、その後何の咎もなく過ぎている。
また不受不施派の祖京都妙覚寺日奥や中山法華経寺日賢と道交があり、関東における同派の興隆に大きな力を尽した。
翌一三年二月一五日には、二代将軍徳川秀忠の乳母岡部局(正心院日幸)の心願で池上に五重塔が寄進建立された。
岡部局は秀忠の武運長久と息災延命を池上の祖師に祈願し、秀忠が無事将軍職についたので、心願成就の御礼としてこの造営がなされたのである。
この年比企谷に常栄寺を創建し、そこに宝篋堂檀林を開いて学侶の教育に当ったといわれるが、その詳細を知ることはできない。
しかしこの古檀林が、のちに池上照栄院に移されて南谷檀林に発展したのである。
日詔が僧侶教育に大きな関心を示したことは枚挙にいとまがない。上総の平沢妙厳寺に伝存する自筆書状にもその一端が記されている。池上在山中の手紙で、年代の記載はないが、京都の学僧住善院が妙厳寺のある西畑の地で学室を開いたことを「仏法繁栄之嘉瑞」と賞揚していることからも知ることができよう。
元和三年四月一九日、池上在山一五年、四九歳で遷化した。
川口市辻の常住寺は慶長年間に日詔が開創した寺であるが、ここにもと池上にあった日詔の絵像が伝存する。
また大峰の法性寺の中興開山にもなっている。
著述には『顕性録要文』『四教儀要文』『文心解要文』『観心記』『集解要文』『智者一代訓導記』『草木成仏記』『集註要文』『指要抄根源』『三千総別記』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮宗大観』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、石川存静『池上本門寺史管見』、『日本仏教人名辞典』「日詔」の項》