妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日叡(上行院)

にちえい #2501

日叡(上行院)

にちえい

(一三五二-一四〇〇)
上行院と号す。その姓氏は未詳。
所伝によれば身延山久遠寺第六世日院の俗法弟に当り、少なくとも波木井に関係する出生ともいう。
日院入寂のあと、応安六年(一三七三)二二歳にして身延第七世として入山。
日叡のとき身延門流は関東への進出を果す。
日叡は両山(比企谷妙本寺・池上本門寺)第四世日山の遷化を聞き、池上を訪れ、狩野氏(叡持)の取持により老僧と談合、よって日叡両山に晋み「三寺一寺の制」の確立を成す。
しかし両山の大衆は心からこれに服したわけではなく、不満をいだいたようであるが、日叡の学徳に心服し、両山の有力な檀那であった狩野氏の積極的な働きかけによって、門流を別にする三山一主の異例な統合がなされるに至ったようである。
また下野宇都宮妙勝寺は両山の日輪の開創した寺であるが、当住が入寂して席となったので、日叡は更にこれを兼ね、かくして「四山一主の制」となった。
また甲州小室妙法寺は富士門流に属していたが、当住日尊は盛んに本勝迹劣の義を唱えていた。
日叡はこれを聞き自尊と論談して遂に勝劣義を捨てしめ、日尊はこれより身延門流に帰した。
このころ藻原の妙光寺(現藻原寺)の当住は和泉蓮海日海(蓮海日海ともいわれる)で、日海は日進・日の時代に身延学頭として教育に当っていたが、藻原に入山してのち、自他宗を問わず勧進し六万貫をもって金塔をたて寺観を荘厳した。
しかるに他宗の施は謗法の施であり、謗施を受けることは宗祖以来の厳禁の制である。
日海がこの謗法の施を受けたことは諸門より強く指弾され、これが日叡の耳に入った。
日叡は康応元年(一三八九)日海を身延に召換し謗施受容の失を責めたので、日海は改悟し、藻原に帰る途中遷化。
弟子日悟は藻原を継いだが、これを恨み寂忍と改名して謗施を受容すべきの説をたて、寺、ために二分したが、のち寂忍も改悟し名も日悟と旧に改めた。
ともかく、日叡は両門流を統合し、比企谷門家を掌握して関東に法陣を拡大し、身延門流の繁栄をもたらした。
更に日叡は埴谷妙宣寺の開堂供養の際の七条法服着不着をめぐって、真間日満に組みし、真間弘法寺を身延門流中山門流への進出の拠点とせんとしたようである。
つまり、埴谷重継(法号日継)の外護によって建立され、明徳元年(一三九〇)妙宣寺として開堂供養を行うこととなった。
中山第四世日尊を導師として、法要は重継の希望により七条袈裟と法服を着し、法会の行列は貫主に御供一〇騎、その供にそれぞれ一騎ずつ供をつけ、合わせて二〇騎が供奉してつとめることとなった。
にも招待があったので、自門流の形成確立の意識に燃えていた真間の日満は、この法会こそ真間門流の威儀を示す好機と考え、同じ仕にて出仕せんとした。
しかし貫主と肩を並べることに一抹の危倶の念があったか、結局出仕しなかった。
かくして日満は自力では如何ともしがたいことを覚り、身延を頼り中山の支配から離脱せんと計った。
そこで日満は身延日叡に七条法服の是非について問うたところ、それは謗法衣との返であった。
これを拠所に日満は中山に対して反旗を翻えした。
日叡は両山を掌中に収め、盛んに門の拡張を試みていたときであり、日満が中山を離れようとする意図に乗じてこれを支配下に入れ、中山門流への進出の拠点とせんとしたことは十分に考えられる。
しかし日叡の七条法服を謗法衣とする論拠はあまりにもとぼしく、結局、身延の中山進出のもくろみは崩れ去る。
この法服事件における身延の敗退は身延の意気をそぎ、両山の日叡への不信をもたらせ、かくして応永六年(一三七九)日叡隠退し、翌七年行学院日億身延に入山するや、両山は身延に請うて法弟延命院日行を両山に迎え、身延・両山は旧制の如く各山一主となった。
なお日叡は両山の主職を辞した翌年の応永七年五月七日入寂。
世寿四九歳。
著述に『雑々記』二巻、『浄土真言要文』一巻、『口伝相承見聞』一巻、『正法華肝要集』一巻等がある。
《『身延山史』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日本仏人名辞典』「日叡」の項

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