妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日具(京都妙顕寺)

にちぐ #2469

日具(京都妙顕寺)

にちぐ

(一四二三-一五〇一)
芸州厳島の産と伝える。
幼くして京都妙顕寺月明の門に入り、一八歳で妙顕寺第六世の法灯を継いだが、日具の学歴や住職代の行状は伝わるところが少ない。
二四-五歳の頃、はやくも備中野山の境智寺に隠棲して信行と研学をとしたが、なお若年の後住、日芳らの後見として、妙顕寺及びその門流を指導した。
日具の代は先住月明の在職と同様、妙顕寺は多多難で、長享年(一四八七-八八)には日真の分袂独立があり、日具は鋭意調定に努力したが、遂にその分立を阻むことは出来なかった。
また明応六年(一四九七)にはト部兼倶より三十番神の勧請について、妙顕寺及び妙蓮寺、本国寺の両寺に質疑が寄せられたが、日具は妙顕寺当住の日芳に代ってこれに答え、その文辞清麗、理旨昭晰なることに兼倶は最大の賛辞を送り、「忽に八万法蔵を一巻の中に開き、殆んど四十余年を一に消す」と賛え、「神道の才覚を測るに、既に神書の奥頤に入る」と激賞感嘆している。『番神問答記』二巻がこれである。
かくしてこの問題は落着を見たが、日具の代、妙顕寺は外には一実神道との問題、内には先に分立した日隆の八品学の主張、また近くは寿量正意の立場から本迹勝劣を強調する日真の独立等、龍華伝統の一往勝劣再往一致の学を批議して、自己の学を像門学の正系とする学主義の間にあって、日具は龍華代々の深秘相承を闡明し、真に像門の正統としての龍華学の確立を計らんとして、明応七年から八年に亘って、澗亭函底抄三巻(正本妙顕寺蔵)、義山致谷集二巻を著した。
文亀二年二月、備中野山にて寂す。
寿七九歳。
『澗亭函底抄』は『開目抄』、『観心本尊抄』、『撰時抄』等を始め、二七篇の御書を観心思想の立場から注釈したものであるが、『義山致谷集』は上人学を達意的にのべており、『函底抄』は與義一住の釈で、『致谷集』は再住実義の秘伝といっている如く、その学は『致谷集』に尽きている。
日具によれば聖人内証の寿量品、寿量品の肝心といわれているのは、在世顕説の寿量品ではなく、本迹未分の根本法華であるという。
本迹の勝劣は在世顕説の相による区分であり、随他の教としての顕説法華についての所論であって、末法の本門の直機のために上行菩薩に譲られた本迹は本迹未分の重の根本法華であって、真の本迹勝劣は本迹の已分と未分、顕説の教と不顕説の理、在世の本門と末法本門とのに論ぜられるべきだという。
かくして日具は在世の法華経よりも上行菩薩に付嘱された滅後の法華経を法体として勝れたものと見る故に、在世の法華経本門においてもなお説かれなかった深秘の妙法を滅後の衆生の為に神力品において付嘱された故に、神力正意論を主張する。
また滅後の法華経と根本法華を結びつけて、本迹未分の結要の法体といい、滅後の法華経の法体は根本法華の法体で、顕説法華法体とは異ると論ずる。
本尊抄』の四種三段中の本迹相対の本門三段は顕説法華の本門三段であり、本法三段は根本法華の本門三段で本迹一致であるとし、本門三段と本法三段の間に勝劣を分別し、本迹相対の本門は未だ内証の寿量品ではなく、根本法華内証の寿量品序分であると論じている。
このように日具は寿量未顕論を説き、神力品で付嘱された法体は神力品に顕れた法体であって、本門正宗の寿量品の法体ではないと論断して、寿量未顕、神力已顕を説き、両者の間の法体勝劣を論じた。
日具の神力正意論は、日陣・日真両門の寿量品正意論に対して寿量未顕を主張しまた日興門流寿量未顕論に対して、神力已顕の立場から法華無詮論を排撃している。
顕本論では殆ど中古天台理顕本における自然法爾の本覚三身論を踏襲している。
要するに日具は本迹未分の重における本迹法体一致を説き、その法体を神力別付の要法とした。
現成の世界に価値を認めず、付起の世界の価値を珍重する中古天台理本覚思想の域を出ぬものといえよう。
《宮崎英修『日蓮宗徒群像』》

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