滅後の法華経
滅後の法華経
めつごのほけきょう
釈尊滅後の現在に生きている我々の主体性において受容する法華経のこと。
即ち釈尊の在世と滅後とでは法華経受容において異なりがあり、在世は迹門を中心とした理念的法華経、滅後は本門に立脚した実践的法華経が主体となる。
日蓮聖人は『法華取要抄』に「方便品より人記品に至るまでの八品に二意あり。上より下に向って次第にこれを読めば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫也。安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次にこれを読めば、滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍也」(定八一三頁)と述べられているが、ここに「逆次に読む」といわれたのが、即ち「滅後の法華経」である。
「逆次に読む」とは流通分の心をもって法華経を受容し、法華経の心を読むことである。
流通分とは法華経を未来永遠に流布せしめ、流布の行為を勧奨し、その行為の功徳を称歎することが述べられてある部分をいう。
迹門流通分は正宗分に説かれた精神を、来るべき悪世の時代に献身的に弘通することを勧奨している。
この流通分の心で逆に正宗分を読むならば、釈尊の在世を現在とする説法の真意が、未来悪世の今日を現在とする説法であると受取れるのである。
聖人が逆次に法華経を読むといわれたのは、このような心で迹門の心を読むことである。
これは単に迹門だけに止まらず、如来の滅後を中心に説かれたものが法華経であるという受容の態度からは、本門こそ正しく滅後を中心としたものであると受取れる。
この受容態度が迹門を逆読するという独特な受取り方を生んだのである。
つまり法華経は釈尊が現在に立たれたものであるが、その現在は永遠の未来を含む現在である。
その永遠の未来は、今日の我々の持つ現在であって、釈尊の真精神は今の我々の現在であると受容するのが「滅後の法華経」なのである。
法華経は恒に永遠の現在に活現し、衆生を救済する。
それは釈尊滅後に生きる我々の現在が恒に法華経と共にあることに他ならない。
従って滅後末法の我々にとって法華経は、必ず「滅後の法華経」でなければならない。
逆次に法華経を読むことは聖人の恣意ではなく、釈尊の御本意として法華経が滅後の現在を志向するのであり、聖人はそれを法華経へ随順する姿勢の中から「滅後の法華経」として受領したのである。
聖人はこれを「本門の法華経」という概念で把握され「末法為正」の教判を立てられたのである。
聖人の法華経実践や救済の論理をはじめとする聖人教学は、すべてこのような聖人独自の法華経受容の精神の所産である。
《『日蓮辞典』「滅後の法華経」の項》