持戒破戒
持戒破戒
じかいはかい
持戒とは戒律を守り持つことをいい、破戒とは戒律を破る行為(犯戒)をいう。
また、その人を指していう。
戒とは、本来、仏道修行者が心掛けねばならない修行態度(三学及び六波羅蜜)の一つに数えられて、防非止悪・諸善奉行を積極的に行おうとする内外両面にわたる規範行為を指す。
日蓮聖人の戒観は、「戒をもて大小のばうじ(牓示)をうちわかつもの」(定八二五頁)として、戒を小乗の戒・権大乗の戒・実大乗の戒とに大別し、一代聖教を分別する目安ともされている。
しかし、末法においては、戒律の遵守ということよりも、『末法燈明記』の影響を受け、末法には守るべき戒律そのものがなくなったと見る、末法無戒の立場が強くなった。
聖人も当然この影響を受けており、末法における持戒を「末代に於て四十余年の持戒無し、唯法華経を持つを持戒と為す」(定九五頁)と教示されている通り、法華経を信じ持つ行為が即ち持戒であると規定されている。
また、世間的倫理道徳をも聖人は積極的に取入れており、それを宗教的次元にまで高揚させ、四恩報謝(定二三九頁)をもって仏弟子の持戒行為であるとも言及されている(定五四四頁)。
ところで、聖人における善悪の概念には、大別すると、随順正法=善、誹謗正法=悪とする見方があり、正法即ち法華経中心の判断基準がその根底にある。
聖人は、法華経の中に釈尊の本意があると見、法華経の精神に反する行為は即ち謗法=根本悪として位置付けたのである。
つまり、法華経の経意に随順することが法華経を持つことであり、持戒ということになる。
反対に、その経意に不随順な行為とは、例えそれが意識的、無意識的であるにせよ、聖人にとっては謗法罪であり、破戒行為なのである。
聖人は法華経譬喩品の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」の経文をしばしば引用して、法華経を誹謗したり、その法華経の行者を誹謗すれば、仏種をも断たれ、必ず無間地獄に堕ちると、謗法罪が最悪の罪であると誡め、法華経の受持を勧奨した。
ところで、日蓮聖人の考え方の中に、いわゆる一般的な戒条の遵守よりも、法華経を信じるか信じないかという法華経への信・不信の問題がより重視された。
それは法華経譬喩品の「以信得入」の経文等により、仏道に入る根本は信であるとし(定三九二頁)、「以信代慧」の語からも分るように「信」の一字を詮となし(定一二九六頁)、戒よりも信を重視したところに日蓮教学の特色があるといえよう。
聖人の宗教は、末代初心の行者には持戒がかえって信仰の障りとなるとも教示されている(『四信五品鈔』)ように、特に持戒を重視してはいないことが知られる。
故に日蓮聖人は、法華経を絶対的「信」の立場で捉え、戒定慧の三学をもこの「信」の中に全て摂取されていると見てよいだろう。
そして、法華経を「一念三千の仏種」(定七一一頁)と認識し、「実乗之一善」(定二二六頁)に帰すべき旨を生涯に亘って提唱し続けたのである。
ここに言う善とは、信を媒介とする法華経への随順行為であり、それが仏種を得ることにもなる。
聖人の持戒行為とは、法華経を信得し、如説に法華を色読する行為そのものであり、法華経を受持すること即ち持戒であると解すべきであろう。
また、聖人のいう破戒行為、即ち悪とは、特に謗法の語をもって遺文の随所にその罪の大なることを標榜されている通り、諸の罪意識の中でも誹謗正法が最も重大な破戒行為であると説いている。
《『遺文辞典』教学篇「持戒」「破戒」の項》