妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

実相寺(静岡県富士市岩本)

じっそうじ #1779

実相寺(静岡県富士市岩本)

じっそうじ

静岡県富士市岩本に所在。 日蓮宗本山。 岩本山と号す。
久安年中(一一四五頃)鳥羽法皇の勅願により、智印によって開創された叡山横川の流れを汲む天台系の寺院で、延暦寺五代座主円珍(八一四-八九一)により唐から請来された一切経を蔵する寺として、日蓮聖人在世かなり著名であったという。
正嘉・正元年(一二五七-六〇)鎌倉を中心として東国に大地震、暴風雨、洪水が続出し、飢饉、疫病が発生し、鎌倉では死者や罹災者が続出するという有様であった。 その惨状を聖人は「近年より近日に至るまで、変地夭飢饉疫癘、遍く下に満ち、廣く地上に迸る。 牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。 死を招くの輩、既に大半に超え」(定二〇九頁)と描写している。 そのような危に対処して幕府は諸寺、諸社に下静謐を祈らせたが一向に効はなかった。 日蓮聖人はこのような現状に疑問を抱き、この災夭続出の原因を経説による文証によって再確認し、その起るべき必然性、理証を極め、経説を実証する歴史的事実、現証を広く求めんとして一切経蔵に入った。 「去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の、内外の智人其故をうらなひ(占考)しかども、なにのゆへいかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに」(定一七一六頁)という文は後年の述懐であるが、諸書に正嘉元年の大地震について論及している点、入蔵の目的が文応元年(一二六〇)七月に前執権時頼に呈出することになる『立正安国論』撰述の準備のためであったなどの点から考えるに、聖人は正嘉の大地震を契機として一切経閲覧のため経蔵へ籠ったと考えられる。 所伝によれば、それは正嘉二年(一二五八)のことであり、岩本実相寺の経蔵であったといわれている。
聖人遺文には入蔵の場所を岩本であると明示してはいない。 ただ「一切経を開き見るに」(定一一二二頁)、「一切経を勘へて」(定一六七七頁)、「一切経蔵に入りて勘へたるに」(定一七一六頁)等と述べるのみである。 聖人滅後七、八〇年頃のものといわれる『法華本門宗要鈔』に初めて「駿河の国岩本の経蔵に容り、諸経論を引て之を勘へ」(定二一六〇頁)とあるのが上古の所伝を記したもので、以下聖人の伝記日澄(一五一〇没)の『日蓮聖人註画讃』には「駿州に致り大蔵に入り」とあって、岩本と明記していないが駿州と述べ『蓮公行状』(貞享年間)、『本化別頭高僧伝』(享保年間)、『本化高祖年譜』(宝永年間)等はいずれも岩本入蔵のことを述べていて、聖人の岩本実相寺入蔵は宗門に早くから受け入れられていた所伝であった。
またこの、実相寺に場所も関係も近い寺院蒲原四十九院住僧の伯耆房日興(に一四歳)が入門したといわれる。 やがてのちに日興は四十九院供僧の日持・賢秀・承賢を自己の弟子にすると共に、隣接の岩本実相寺住僧の肥後公・筑前房・豊前房・日仲をも弟子に転化させていったのである。 所伝によれば、聖人の岩本入蔵当時、実相寺の学頭職にあったのが智海であった。 智海は聖人に『摩訶止観』の義を乞い、深くその学徳に服した。 のち聖人の身延に入山されるや、自ら所職を捨てて聖人の門に投じ、日源の号を賜うた。 やがて実相寺全山あげて聖人に参ずるに及んで、聖人が開山に日源が二世となった。 日源は中老に列し、雑司谷法明寺、碑文谷法華寺、谷中感応寺等を創し、正和四年(一三一五)九月三日に遷化した。
その後永禄年(一五六八頃)武田信玄の兵火に罹って堂宇悉く焼失し、慶長年、中興日恒が再興を企て、常在・真如の二院及び五箇を造営した。 文久年四八世日もまた復興に大いに努め、祖師堂庫裡を再建し、五四世日清代には明治維新上地の山林を復旧した。
現在本堂祖師堂、経蔵、方丈、庫裡、鐘楼、二王門等があり、祖師像は立正寺開山日法作という。
《『遺文辞典』歴史篇「実相寺」の項、『日蓮辞典』「実相寺」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「静岡」の項、『日興門流上代典』「実相寺(駿河)」の項》

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