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鬼子母神【修法】

きしもじん #5298

鬼子母神【修法】

きしもじん

法華経の行者守護の神である。
その根拠は『法華経陀羅尼品』において前にて咒を説き擁護の誓を立てたことによる。
ち「十羅刹女、鬼子母並に其の子及び眷属と共に前に詣で、同声にに白して言さく、世尊、我等も亦法華経を読誦し受持せん者を擁護して其の衰患を除かんと欲す。 若し法師の短を伺ひ求むる者あらば便りを得ざらしめん」と述べ、前に咒を説き終って「寧ろ我が頭の上にのぼるとも、法師を悩ますことなかれ」、「若し我が咒に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破れて七分とならんこと阿梨樹の枝の如くならん」等と仏に申し上げたところ、仏是を印可して「善哉善哉、汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量る可からず。 何に況んや具足して受持し種々に供養せん者を擁護せんをや」と言われたことから、行者擁護の神として信仰されるようになった。
『日女御前御返』に「三千世界の人の寿命を奪ふ鬼たる鬼子母神十羅刹女等」(定一三七五頁)といわれているように、もとは鬼で、訶利帝母、訶梨帝薬叉女等といい、青色、黄色、青衣等と訳する。 また歓喜母、母ともいう。
その説話は二〇数種の諸経に説かれているが『有部毘奈耶雑』によれば訶梨帝母薬叉女の父は王舎城の山に住んでいた薬叉神婆多であった。 薬叉女は父の死後ある弟に向って「王舎城へ行って人の子を取って食いたい」と言ったところ、弟娑多山が諫めたが聞かないので健陀羅の薬叉半遮多の子半支迦と結婚させた。 そして五〇〇人の子を生んだが心消えず人の子を取って食った。 人々はこれを恐れてに訴えたので、は彼女の不在中に一番下の子を隠したところ、大いに驚き悲しんで一切智者なるに尋ねた。 そこでは五〇〇人の中の一子を失ってそれ程悲しむのに、数少ない子を取られた親の悲しみは如何ばかりか解るであろうと教えたので、彼女はその非を悟り発心して三帰五戒を受け、以後人の子を殺すことなく仏法護持に尽したと説かれている。
また『雑宝蔵経』には、鬼子母は老鬼神般遮迦の妻で一万の子があり、その最小児を嬪伽羅といった。
人の子を取って食うのでが嬪伽羅を鉢の底に隠したところ、七日間尋ねて見出すことが出来ず、に救いを求め遂に心を改め三帰五戒を受けたと説いてある。
説鬼子母経』には、が大兜に遊化した時、中に一人の母があり人の子を取って食った。 沙門が仏に訴えたところ、仏がいわれるには、鬼子母が今人間に生れて悪を行っているので、彼女には一〇〇〇人の子があり、五〇〇人は上界に、五〇〇人は人界に居る。 その一〇〇〇人は皆鬼王として数万の鬼を領している。 そしてこの鬼王がをしているが諸は如何とも出来ない。 そこでの命を受けた沙門がその一〇数人の子を精舎の中に隠した 鬼王は一〇日探したが見当らず遂に帰依して須陀洹道を得、精舎の傍に住して千子王と呼ばれ、子の無い者に子を与えようと願を起したと説かれてる。
その他真言宗には、『大薬叉女歓喜母並愛子成就法』等の経が伝えられ、男女和合、求男女子の功徳があるとされている。
度においては、諸寺の門屋又は厨屋に祀られ除病求子の神として信仰された。
本宗では初めは十羅刹女と同格に信仰されていたが、『日女品々供養抄』の「十羅刹女の母あり。 鬼子母神これなり」の文の影響等により、聖人滅後の諸師の曼荼羅座配に見られるように段々鬼子母神優位の信仰が盛んとなり、遂に鬼子母一尊を祀ることとなり、徳川期に入って祈祷の隆盛と共に祈祷本尊と称されるに至った。
中山法華経寺の尊像は聖人の御作と伝えられ、加行所が出来て一〇〇日の水行と祈祷相承が行われるようになり、鬼子母神書様口決事、鬼の字七鬼の大事等の相伝が伝えられている。
その形像はもとは豊麗円満な女が宝冠をかむり瓔珞を垂れ手足に鐶釧し、頸には頸飾り、耳飾りをつけ天衣を纒い膝下に群る子を連れ、懐に愛児を抱き眼に慈愛をたたえていたが、後に法華行者擁護鬼形鬼子母神と称し蓬髪、有角、裂口、露牙の憤怒形の姿や無角、合掌の形で祀られるようになった。
《『遺文辞典』歴史篇「鬼子母神」の項、『日蓮辞典』『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「鬼子母神」の項、『図説仏教語大辞典』「ハーリーティー」の項》

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