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関西教学

かんさいきょうがく #5118

関西教学

かんさいきょうがく

関西とは宗門史的には京都を中心とする日蓮宗の教団を指し、それらの地域で活躍した諸師の主張した教学を関西教学と呼ぶ。
日蓮聖人直弟時代では、鎌倉を中心とする日昭・日朗、茂原の日向、下総日頂、日常らの諸流が関東を中心に線を拡張して行った。
一方、日像の京都への弘通を皮切りとして、各門流は盛んに京都への進出を試み、室町時代に入ると、その団の主力は関東から関西へ移行していった。 それは幕府が京都へ移ったことにも基因している。
室町代は諸門流が分波を迎え、中山門流より玄妙日什が分立して妙満寺を創し、日親は本法寺を、日祝は頂妙寺を建立して京都の弘通所とした。
日興門流では住本寺・上行院等を京都の弘通所とし、身延門流では学養寺・妙伝寺等を創して京都の弘通所とした。
そのような京都進出の動行のなかで、関西における二大勢力として、日像の法脈を継ぐ四条門流と日静の開創にかかる本国寺の六条門流とがあった。
この室町代の学の特色は、外には天台宗日蓮宗との権実の論争がみられ、内部においては本迹の一致、勝劣を論ずる本迹論争が盛んに行われた。 この結果多くの分立を見るのである。
まず先述の玄妙日什は、経巻相承を主張し、一部修行本迹勝劣を標榜して中山門流より分立した。 京都の六条門流からは円光房日陣、四条門流からは仏性院日慶・慶林坊日隆、常不軽日真らが本迹勝劣を主張して分立するに至った。 これらの諸師の流れを勝劣派という。
これに対し関西の一致派中山門流の青蓮院日中の教学がその主流となり、中古天台教学に影響を受けた理本覚観心主義学がその特色であった。 その一致派には、正行院日源・本成院日実・瞻山院日具・真如院日住らの学匠があった。
これらの京都を中心とする団は、比叡山からの圧迫等があったため、しばしば諸門流の盟約を結んだが、一旦天文の法難によって京都の日蓮宗の諸寺は破却された後、復興が盛んに行われた。
しかし織田信長の宗教政策によって弾圧され、天正七年(一五七九)の安土法難によって、従来の宗風に一大変調を来したのである。
そのことから学に沈滞がみられ、一致派においては泉南の地に心院日珖らの三光無師勝会が開かれて学復興を試みようとしたのである。 その勝会より一如院日重が輩出し、寂照院日乾・心性日遠へと継承されていった。
その学の特色は、中古天台教学よりも天台・妙楽等の中学の研鑽に主眼がおかれたものであった。
この泉南の地に起された関西教学は、室町時代末葉から江戸初期にかけて、関東に檀林が創設されることによって関東に移植され、関西教学の東漸が行われ、関東の故地に再び学の振興を見るに至ったのである。
かくして興った関東学はその内容において、従来の関東学とは異なった泉南の流れを汲む関西教学であった。 そのことが旧関東系学派と珖門並に重門の関西系学派との対立抗争となり、受不受の論争の一面にこの対立が見られたのである。
かくて不受派は幕府の弾圧を受け、重門系の学が日蓮宗団の大勢を占めるに至ったのである。

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