日達(了義院)
日達(了義院)
にちだつ
(一六七四-一七四七)
了義院と号す。延宝二年、福島県岩代に生まれる。
一四歳のとき要法寺系に属する同郷の本法寺に入り、円融日通の門に投じ出家。
一八歳の時、水戸檀林に学び、勝光日耀の会下に参じ、改派して日耀の門に帰した。
日耀の寂後、中村に学び、次いで鷹ヶ峰・六条・中村の能化を歴任した。
享保五年(一七二〇)本国寺二六世の法灯を嗣ぎ、同一三年、鷹ヶ峰止足軒に隠栖した。
翌一四年、『高祖御譲状註釈』一巻を著し、本圀寺付法正嫡の義を宣揚し、他の諸門流に是非を加えた。
ここにおいて駿州(静岡)蓮永寺の日圭、仙台孝勝寺の六牙日潮らはこれに抗し、また立本寺日應は『諫迷治蟲録』を妙顕寺の観具日諦は『規矩準縄録』を著し、また陣門の本有日相は『御譲状註釈辨偽』を作り、それぞれ日達の所説を難じたが、これらに対して日達は、再び『獅子吼章』二巻を著して応酬した。
日達はその後、寛保三年(一七四三)、『本迹雪謗』を撰して日相の『御譲状註釋辨偽』に反駁を加え、本成寺をもって本圀寺の末寺と断定し、また本迹一致の義を強調して、陣門の勝劣義を破すると共に、寿伝日悦の『本迹破邪決答』を駁した。
従って勝劣派の諸山は陣門と提携し、日達の説は寛文の盟約に違反するものとして、延享三年(一七四六)、これを幕府に訴え、『本迹雪謗』の原板焼却事件を惹起した。
また不受論に対しては『受不受決義抄』を著して、日興・日樹・日講の不受義を駁した。
こうして日達は、対内的には勝劣派と本迹の致劣を争い、不受派と受不受を論じ、その他の一致諸門流とは法脈の正潤を議して、六条教学の樹立を計った。
対外的には浄土の了海、眞宗の性均、華厳の鳳潭と権実を争って、法華教学の宣揚に努めた。
更に神儒二教に対しても批判を加え、『神仏冥応論』五巻を著して、林羅山の仏教排斥を駁し、『現安後善抄』を著して朝廷に献じ、『鴻宮神記』を著して尾陽公に捧げるなど、大いに仏教擁護のために努めた。
日達は公法対決の許されない寺請制度内においては、専ら著述によって破邪顕正の論戦を張り、宗義の宣揚に努めるべきであると主張した。
また弟子訓の中には「今時の学者、但だ人の後に踏行するに慣れて、一躍三大群に秀で、類を出る者を見ず(略)能化の號を得ば則ち足れりと為す。是の若き輩ら豈に宗綱を維持し、自他を利益することを得んや。唯沸法を賣って口腹を養ふのみ、是を以て当時、京都・關左宗門日に微に、檀越月に減ず。全く是れ更に広宣流布の気象を觀ざるなり。その罪何れにある矣。斯れ学者、高祖の専ら沸法の為に屡々巨難に逢ひ給へる不惜身命の鴻恩を遺忘するに由るなり」と戒めている。
日達のかかる破邪顕正的精神はその門下によって継承され、江戸後期の教学界に及ぼすところ大であった。
日達は延享四年二月、七四歳をもって寂した。
その門の直参した者は七〇余人と称されている。
著述は五十余種百二十余巻と伝わる。
その代表的なものを挙げれば、『愍諭繋珠録』『顕揚正理論』『決膜明眼論』『本迹雪謗』『御譲状註釈』等の論書を始めとして、宗義に関しては、『立正安国論講義』二〇巻、『開目抄講義』二巻、『鎌倉殿中問答略註』二巻、『本迹得意抄』二巻、『読誦用心抄』一巻、『法体堕獄』一巻、『仏乗種子論』一巻等がある。
《『了義院日達上人遺芳』、『日本仏教人名辞典』「日達」の項、『国史大辞典』一一巻「日達」の項》