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日境(通心院)

にっきょう #2534

日境(通心院)

にっきょう

(一六〇一-五九)
字は叡朝、通心院と号す。
浦井宗府の第四男にして、一五歳の折、玉沢の真応院日達について剃髪した。
俗兄が三人あって、長兄は宗竹といい、水戸藩の儒者、次兄は智見院日暹、第三兄は立正院日揚である。
父宗府はその三子をして法器たらしめんがため、日暹は日遠に、日揚は日乾に、日境は日達にとそれぞれの門に投じ、財を傾倒して育英に努めた。
日境は一七歳にして、飯高檀林に遊学したが、研学中、日達が没したので、日遠の付弟となった。
遊学中、玉澤日遵は退位しようとし、日境を再三屈請したが、固辞して晋まず、寛永一三年(一六三六)恵日通を推挙して入山せしめた。
寛永年(一六二四-四四)受・不受対立の余波を受けて、中村檀林は学徒が離散して殆ど滅亡になんなんとしていたが、寛永一七年、日境三八歳の折、請ぜられて同檀林の第八世の化主となった。
その飯高檀林の学徒八○余僧は日境を慕って来檀したので、一谷を構え、これを「東法眷「(東谷)と名づけ、旧住の日奠(当時は日傳)、日筵(当時は日延)等二〇余僧の一谷は「西法眷」(西谷)と称せられた。
日境は旧住の徒とともに、朽廃していた伽藍を修復し、堂を再建したので、同檀林中興の祖と尊崇される。
前記の日通は玉沢在位九年にして没したので、玉沢は再び日境を屈請したが、正保四年(一六四七)前記の隆源日筵を推挙して入山させた。
また、身延山の日暹が没したので、身延の招きに応じ、慶安元年(一六四八)四六歳にて身延第二七世に晋んだ。
日境は慶安二年、三門を桧皮に葺替え、七面山の土地の身延支配を確認し、慶安四年には位牌堂(一三間半×一一間四方縁)を改築し、旧堂を三島本覚寺に移した。
明暦二年(一六五六)には輪堂に天海一切経(現存)を納めた。
身池対論後も、不受派の勢力はいよいよ盛んとなり、このまま過せば、受派の存立も危険となるに至った。
慶安四年、徳川光が薨じた折、不受派が諷経を勤めることを申し出たのを好機として、翌慶安五年、池上の日豊らと謀り、小湊日遵、日運らの不受派を訴えた。
それ以後入寂するまでの八ヵ年の晩年を不受不施派対策に尽力した。
しかし、この件は終結を見ぬまま、万治二年一〇月二八日、江戸谷中瑞輪寺にて世寿五八歳をもって遷化した。
日境は現今の玉沢法類の縁祖にて、弟子に境妙日宗、境心日勝、円心院妙是日相比丘らがあり、『論義』四巻、『記録』三〇巻等の著述がある。
なお、日境書写編集になる録外御書残欠八冊が身延文庫に存し、従来未知の真蹟断簡遺文の模写を含む貴重な遺文集となっている。
この日境本録外は智見院日暹書写編纂の『延山録外』につぐ、いわば第二の『延山録外』といえる。
《『日本仏人名辞典』「日境」の項》

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