天正の盟約
天正の盟約
てんしょうのめいやく
信長の仏教政策は概して苛酷・峻烈であり、叡山・本願寺への圧力などから本宗諸寺の長老たちも天文法難の災厄にかんがみ、一揆的行動を慎み宗論も慎重を期し永祿の規約が結ばれて一一年目、天正三年(一五七五)八月致劣諸本山一五ヵ寺が会合を持続して永祿規約・和合の厳守方を確認した。
これを天正の盟約という。
天文法難以前の強折的態度もやがて自衛の必要から宗門の武装化に発展し、一向一揆に類して法華一揆となり、これらが武将の抗争に加わって未曽有の乱世となった。
こうして天文法難が起りその退歩後は天文一一年(一五四二)帰洛を許されても昔日の勢威なく、永祿七年(一五六四)の永祿の規約にみるように一致勝劣和睦による宗門の和合が計られた。
永祿一一年信長は義昭を奉じて入京、翌年二条第の造営のためには諸社寺の石材の徴発や本国寺の建築物や装飾品の没収、美濃・近江の山門領寺田の公収、元亀二年(一五七一)叡山の討滅、翌年徳政令をもって公卿・門跡が寺院に売却した所領を無償返還せしめ、京都周辺寺社に属する諸座の圧迫、諸国の一向一揆壊滅への諸対応や本願寺抑圧等、信長は仏教諸宗に対して政治勢力となることを極度に憂慮し、苛酷な報復・弾圧を行っている。
そこで宗門諸寺の長老たちが永祿の規約を再確認して天正の盟約が成立した事情が理解できる。
信長は上洛の度に本国寺、本能寺、妙覚寺などを定宿としたのも武威を示して本宗を威圧するためであった。
また信長による叡山や一向一揆などに対する残虐な行為のあったことを知れば、宗門は旧来の法厄を省みて軽挙妄動を誡めた理由が判然とする。
かくして信長の分国内での無用な軋轢を避けようとして自戒自粛したのが天正の盟約である。
その「諸寺法式」によれば、まず一般僧俗の宗論を禁じ、もし宗論すべき事態にたち至った場合は諸寺へこの旨を届け、またその対論者は諸寺談合のうえ然るべき人を選び訴陳の状、即ち問状・答状は惣談合によって、これに当るという慎重な態度が要求された。
これは宗論を禁止したものでなく一宗を挙げての問題として重視した証左である。
このことは本禪寺田聚、本法寺日里、妙満寺日国、頂妙寺日実、立本寺日言、妙顕寺日玖、妙泉寺日円、本満寺日然、妙蓮寺日近、妙伝寺日潤、本国寺日宝、要法寺日周、妙覚寺日保、本隆寺日宣、本能寺日林の一五本山が確認している。
なお当時信長の勢力範囲外の宗勢をみれば、各地域の情勢に応じて活発な布教伝道から宗論も各処で行われている。
日珖にしても天正の盟約成立後一月余りで九月末、阿波国勝瑞(徳島県阿波市)における宗論に出かけ、一〇月六-七日には浄土宗と討論し、さらに真言宗の円正という学匠とも宗論して共に屈服させている。
これは阿波国主三好長治の庇護のもとであり、同じく備前・美作二州においても松田・浦上・宇喜多・戸川・花房氏などの外護によって、本宗の勢力が当地方を風靡し、その活躍の状況が理解できる。
山陰地方でも竜獄院日晨、善性院日永、本教院日応の布教伝道にもみるべきものが多い。
加えて西国や関東など広範な地域における宗門の普及と活動状況一般が考察されねばならない。
日蓮宗はこの当時各地方とも活発な布教伝道を展開させて法域を拡張し、多くの帰依者を得て着実な発展を示したことは事実であるが、信長治下の京都では長老としての高僧たちが慎重な配慮をしていたにもかかわらず信長の巧妙な政策に乗ぜられ、やがて安土宗論の屈辱的敗退を余儀なくさせられるようになり、その伝道弘布は逼塞することとなった。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、影山堯雄『日蓮教団史概説』》