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草山教学

そうざんきょうがく #4595

草山教学

そうざんきょうがく

元政(一六二三-六八)の学。
またその特色ある義理解を継承した門下の学をいう。
元政は俗にあって石井元政(いしいもとまさ)といい、毛利輝元の臣石井元好の第五男で、京都に生れた。
一三歳で彦根藩主井伊直の侍臣となったが、一九歳のとき病にかかり、二六歳のとき妙顕寺の僧那日豊の門に投じた。
鶏冠井(かいで)檀林に学ぶも、当時の訓詁的な学風に満足せず、明暦元年(一六五五)、三三歳、洛東の深草の地に庵を営み、寛文元年(一六六一)、禅堂風の仏殿を建てて瑞光寺と称した。
草山元政の日蓮聖人追慕は激しいものがあり『宗定法要式』に用いられているお会式法要の「歎」は元政の作になるものである。
しかし、その義理解は、いたずらに解釈に解釈を重ねて行く学風とは全く異なり、極めて直観的に日蓮聖人の示された法華経の証悟の境地を信証し、同に極めて厳格に法華経の実践修行を規定し実践しようとする。
『小止観抄』一巻、『題目和談抄』一巻はそれぞれ観心・唱題について述べたもので、短篇で実際的な立場が基本になっており、『草山集』三〇巻、『草山要路』一巻は詩文等のなかに日蓮聖人義を信証しようとするところに特色がある。
元政は中(明)の詩人陳元贇(ちんげんびん)と合い吟じ『元元唱和集』を創るなど詩文に長じているとして世に知られるが、その背後に日蓮聖人義の根本に迫ろうとする学的・思想的営みがあるのである。
元政自身は一人の仏道参究者として全うした人であるが、逆にそれが大きな魅力となり、門下には他宗の義・修道にあきたらず、元政の門下に加わった人も少なくない。
また「霊簿」が諸寺院過去帳の序にしばしば用いられたり、法要式に元政の讃文・諷誦要文・回向文等が用いられていることからも推察されるように、日常的な信仰の倫理や論理の面で元政の影響が少なくないところから、草山教学が注目されているのである。
元政が活動した期は一七世紀半ばに当る。
ち一六世紀末の文禄四年(一五九五)頃に興起した受不施・不受不施の論争は、いわゆる寛文九年(一六六九)の不受不施派の惣滅によって一往の結着はついたというものの、宗団内に大きな波紋を残し、その一つの現れとして日蓮宗から他宗へ転ずる脱宗僧を生んだ。
このときに当り、受不施とよばれる多数派の中心人物であった一如日重の弟子、心性日遠(一五七二-一六四二)に元政は深く私淑し「遠公在しなば、余は之が為に履を取ると雖も、忻慕する所なり」(「草山集」『日全』一一六頁)と記したほどであり、また動乱期にあって俗塵を避け、ひたすら仏道勤求に徹した鳴滝の中正日護(一五八〇-一六四九)や本覚日英(一五八四-一六四七)の跡を慕ったのである。
その厳しい毎日の規律は『草山清規』に詳しいが、その基本をなす精神は法華律である。
日蓮聖人は戒定慧の三学をそれぞれ修することは末法に適当しないとし、妙法五字の受持こそ肝要であるとされたが、元政は妙法五字の受持に即して戒定慧の三学を自覚的に認識し、仏道修行の目標とすることを提唱した。
元政は律に関して、天台大師の『小止観』、道宣律師の『南山律』、仁空の『新学菩薩行要抄』等を研究したが、特に『涅槃経』の扶律談常の精神を重視した。
ちこの意味から『涅槃経』を抜萃し、十門によって述作したのが元政の『如来秘蔵録』である。
草山教学は深草瑞光寺歴代住職によって明治・大正年間まで、厳しい法華律の体現によって継承されてきたが、また本妙日臨(一七九三-一八二三)や優陀那日輝(一八〇〇-五九)に大きな影響を与えたのであり、われわれは今日、元政の著書と合せて、これら学匠を媒介してその思想・学を知るのである。
望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀日蓮宗学史』》

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