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日淵(久遠院)

にちえん #2795

日淵(久遠院)

にちえん

(一五九二-一六〇九)
字は玄底、久遠院と号す。
後奈良院の御代、享禄二年二月、京都室町五条門松本町において、加納与祐を父として生れる。は舞楽一流の宗として、世に聞えていた。
よりすこぶる英才として聞こえ、六歳にして吉美妙立寺本行院日詮(異説に妙満寺院家本行院日詮)について得度
文三年(一五三四)二月、玄底日雄と名乗った。
文一四年一七歳にして江州三井寺に学び、八ヵ年の間蛍雪の功を積み、同一六年には園城寺の堂にて、年一九歳にて説法されたと伝えられる。
同二一年五月の頃、勉学のために越前の平等慧寺に行き、永禄七年(一五六四)迄一三年の修学す。
この慶隆日諦の化をうけ、永禄九年一一月二〇日、感ずるところがあって日雄を日淵と改め、北越の巡の後、永禄一一年京都に帰り、北野の経蔵に入って五ヵ年の功を積む。
蔵経通覧三に及び『略述大蔵経』百巻選述の基となった。
ここに日雄より日淵と名を改称したについて『日蓮団全史』上巻によれば、その著『義文類聚』乾巻奥書には「雄、撰後号淵」とある。従って初めは日雄といい、のちに日淵と改めたようである。
長谷川義一は「三十八歳の永禄九年の改称という」とあるが、日淵の『文句鼻端二』の奥書によれば「永禄九丙刀歴季冬廿日酉刻功成、本因日雄撰」とある。ち永禄九年以後の改称と考えられる。
また日淵の弟子日海の「本因」の名も、師より受継いだものと推定する。
正五年(一五七七)四九歳の時、京妙満寺二六世を受け、翌六年一一月、京都出水通室町近衛町に空中山寂光寺を建立す。
その後正一八年二月、秀吉の命によって寺町通竹屋町に移転という。
正七年には有名な安土宗論が起った。
日淵が対論者の一人として選ばれたのは、蔵経通覧三回といわれる学識者として、法華宗内に認められていたものであろう。
妙満寺にはその後、文禄元年(一五九二)より慶長三年(一五九八)頃まで八年在住し、同三―四年頃に寂光寺に退いて、弟子の養育に当った。
秀吉の大供養には出席して、焼香のみにて帰住されたといわれる。
慶長五年の春には、日経が日淵の後を継いで妙満寺二七世となっているが、江戸中期頃の旧記に「皇都妙満寺廿六世久遠院日渕上人ハ、博学多才ニシテ都鄙ニ陰レナシ、江州安土宗論ノ時モ経繰リノ席ニ列席シ給フ一人也、其頃大閤秀吉公、慶長三年八月廿二日東山ニ於テ、千僧供養ノ時廿一箇寺諸上人、秀吉公ノ供養ノ席ニ列リ、則チ大閤ノ施ヲ受ケ給フ程也、翌慶長五年ニ妙満寺ヲ陰居也、日経ハ慶長五年妙満寺へ入院シ、直ニ日渕ノユズリヲ受ケ、則チ廿七世ニ列レリ」とあって、江戸の中期には、日什門流内部に日淵は博学者として周知され伝承されていたのである。
本宗綱要』に「当時日淵ハ内ヲ守り日経ハ専ラ外ヲ撃ツ」と記されていることによって、その知名が判るのである。
正二〇年寂光寺住として、妙満寺僧檀に「一、当門流世出世之儀は、日運の五箇条を以って、一味同心する事。一、妙満寺流においては、法華一経の解釈について、本門迹門の一致勝劣のことで、勝劣を立てる事で違乱があってはならぬ。一、開山の置文の規制に異義なき事」の三箇条の規制をもうけ、違犯者は追寺させたともいう。このように日淵は天文法華の乱以後、消沈しがちな宗門に清風を送り、日運の五箇の制条を遵守すべきを説き、日什の置文の古制を力説して、日経の布教に大きな影響を与えたのである(『日高書記本』元禄期成立)。
日淵の規制一条目について、本漸寺日信は「日運の五箇条は小乗である」と批判している。
また、二条目について『法門立派記』には「日蓮法華宗内不同事。一、本迹一致事、世間一致門流也。二、唯本一致事、日昭門立也。三、一品二半事、妙満寺、四、寿量一品事、要法寺。五、護持斯経事、本立寺。六、本門八品上行付嘱題目肝心宗事、本興寺、本能寺、妙蓮寺也」とあり、日淵の時代には妙満寺は一品二半宗といわれていたことが知られる。
正年代より慶長六年頃迄、多くの先師が妙満寺に参詣、日淵の規制に与同しており、その代表的な先師を挙げると、日海・日(家子妙宣寺)・日経・日純(本寺)・日達(経胤寺)・日陽(伊東妙隆寺)・日先(本寿寺)・日問(上台宝泉寺)を始め五五人に達している。
このように安土宗論、千僧供養等の宗門の動乱期に、日淵の働きは偉大なるものであった。
日淵は慶長一四年二月一六日、八一歳にて寂光寺に入寂したが、日淵を後世有名にしたのは、安土宗論の記述を残したことにある。
また弟子の本因日海は囲碁の名人として名高い。
元禄年代に妙満寺貫主となった日高によって「囲碁下一本因」とまでいわしめたのである。
《野口日主『日渕上人伝』、長谷川義一『什門教学伝統誌』、山根日東『妙満寺概観』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮団全史』上、『妙満寺歴代録』》

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