日山(大鷲阿闍梨・妙泉阿闍梨)
日山(大鷲阿闍梨・妙泉阿闍梨)
にっさん
(一三三八-八一)
池上・比企両山三世、大鷲阿闍梨または妙泉阿闍梨とよばれる。出生地は下総の平賀郷とも、武蔵の池上ともいわれるが明らかでない。
幼時両山三世日輪の門に投じ、のち川越の仙波檀林で天台を学んだという。
ところが身延山蔵板の『本尊論資料』に、日山は檀那流初祖覚運の学系を継いだ隆経の学弟と記されている。
仙波は恵心流杉生の皇覚の弟子能真の系統で、尊海を中興とするから、天台における系統を異にする。
あるいは叡山に学んだのかも知れない。
延文四年(一三五九)に師範日輪の遺命で池上に晋董した。
翌年八月二九日に、京都妙顕寺の大覚大僧正に、上洛して日輪の遺言を伝えたいと書き送った消息が残っている。
池上在山中は、その経営に努力した。
戦災で焼失した釈迦堂の一尊四士像は貞治五年(一三六六)正月に仏師妙通が修理したと銘文に記されていたから、この時代のことである。
また応安八年(一三七五)には、開基檀越の池上家が退転して鎌倉五山の寿福寺か建長寺に信仰をよせ、本門寺領三町六反を南小路の道場に寄進、本門寺をその末寺にしようとした。
日山は関東管領足利氏満にその不法を訴え、勝訴して寺領はもと通り安堵され危機を脱した。
この年に池上の宗祖御影像を鎌倉比企谷に移した。像を輿に乗せ、途中四人で小安の弘通所(東神奈川の本慶寺)までかつぎ、帰路は二人でかついだというから、間もなく無事池上に帰山したらしい。どうして御影像を移したのか、その理由は明らかでないが、あるいは池上氏退転にかかわる訴願と深い関係があるのではなかろうか。
池上に、この宗祖尊像をまつる御影堂を最初に建立したのが日山であるという。また年次は明らかでないが、比企谷妙本寺が類焼した。日山は諸方に勧化して間もなく焼失した殿堂院宇を復興した。上総国伊北庄(伊保)は日輪以来池上の教田であったが、日山はこの地の豪族狩野修理亮の帰依をうけ、永和三年(一三七七)の秋に弟子日顗が始めた行川妙詮(泉)寺の開山に迎えられた。
御供檀那に松山の上田氏、荏原の蒲田氏を従え、数日間この寺で説法し、上総の長興・長栄・(比企・池上)両山という意味で、山号を興栄山と定めたという。
因みに日顗の顗の字は日山の山の字を頭にいただく意味で、その弟子の礼の厚さのほどがわかろう。
また狩野氏、上田氏、蒲田氏のような中堅武家層が、日山により池上門流に入信した事実は注目に価する。
以後伊北庄方面ばかりでなく、両山の弘通圏はこの三氏の加護によることが多く、とくに狩野氏は山内上杉家の家宰である長尾氏と姻戚関係にあり、強大な実力を有していたらしい。
両山七世日寿、八世日調の両貫首が狩野氏出身の僧であったこと、京都の本法寺や鎌倉の妙隆寺が狩野修理亮の法号叡昌を山号としていることなど、両山のみならず、本宗に深いつながりをもつようになった。またこの狩野氏は絵師正信、元信で有名な狩野と同族といわれる。
武蔵国秩父の松山に本拠をもつ上田氏は御堂の浄蓮寺、日影の東光寺、松山の妙賢寺などを加護丹誠し、川越に本拠を移してからも、城中に行伝寺を建てるなど、その法功は甚大である。
上杉氏、後北条氏の関東支配を通して、有力武将として君臨した同氏は、とくに池上にも外護の足跡を残し、仁王尊造立などで知られる。
また武蔵国荏原郡蒲田に妙典(田)寺を開創した江戸氏の一族の蒲田氏も、平賀本土寺などにその外護の一端を残している。
妙典寺の開山日饒は日山と法論の末本宗に帰伏したとする説もあるが、これはおかしい。
日饒が身延・池上・比企三寺の学頭として活躍したのは両山五世で、身延と両山を兼帯した日叡の代であるから、蒲田氏を教化したのは日山であろうが、妙典寺開創はその後のことに属する。
永徳元年九月七日、四四歳で比企谷で遷化した。
著述に『三義抄』がある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『朗門流略譜』、『当門徒継図次第』、石川存静『池上本門寺史管見』》