体内体外
体内体外
たいないたいげ
体とは実体、本質、根本の趣旨等の義があり、天台教学では仏の証得せられた諸法実相の実体の内なるものを体内といい、その実相の実体から外に取出されたものを体外という。
仏を立場として論ずる場合には、体とは仏の覚体をいい、その内面を体内、それに対して覚体の力用として外面に取出されたものを体外という。
また法を中心として論ずる場合には、仏の証悟された純円の妙法=法華経を体内といい、その純円の教えに引入すべく仮に説かれた方便の教法を体外という。
天台大師は「方便」の語を釈するに当って、体内方便・同体方便を挙げ(『正蔵』三四巻三六頁)、真実の体の外の方便、法華経以外の方便を体外方便といい、方便即真実と開顕される法華経所説の方便を同体方便とする。
この体外・同体の方便を妙楽大師は体外方便・体内方便と表現している(『正蔵』三四巻二一頁)。
この用語のほかに、天台教学では権実二智を解釈するに当って、体内体外の権実という用例がある。
即ち、仏には諸法実相を究尽する実智と諸法の差別を知る権智とがある。
この仏の内証、体内権実二智は、化他へのはたらきをもち、仏の随自意体内の権智をもって、九界衆生の機に随って教が説かれ、これを随他意体外の権という。
方便品ではこの体外の権は体内の権に摂帰して、仏内証の権実二智が明らかとなる。
日蓮聖人はこの体内体外、権・実(円)の法門について、次のように示されている。「爾前の円は法華と一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは云はざるなり。体内の権を体外に取出して且く於一仏乗分別説三する時、権に於て円の名を付て三乗の中の円教と云はれたるなり」(定二六頁)という。
つまり、爾前の権・実(円)二教は法華経に開会されても、それは体内の実となるのではなく、体内の権であって、爾前の円と法華経の円を同体と見る円体無殊思想を否定され、法華の純円を強調されている。
このように体内体外の語は「方便」解釈、「権実二智」解釈上に用いられたが、日蓮聖人滅後の教学において、江戸時代の八品派の円成日成(一六六四-一七四三)、忍定日憲(一六九四-一七七〇)は法華経の体内に本迹勝劣を論じている。
即ち日成は体内の妙に本迹があると釈し、体内の迹は体内の本に劣ると主張する。
その体内の迹とは、本地真身所具の応身の如きものであるという。
日憲は『体内迹勝劣義』、『正助合行盲杖記』等を著し(『宗全』第九巻)、本門の事一念三千=題目を体内の本、下種の法体と規定、迹門の諸法実相を体内の迹、脱益の法体と見なすのである。
この体内体外の本迹論に対し、日真教学の立場から、体内には権実はあるが本迹はなく、天台教学、日蓮聖人にも体内の権実論のみしかないという批判がみられる(林真芳『日真教学の研究』一八五頁)。
また、顕本を論ずるに当って、江戸時代大石寺教学を大成した堅樹日寛(一六六五-一七二六)は、文上顕本、文底顕本とに分ち、文上顕本を更に体外・体内の顕本に分別している。
即ち文上顕本とは久遠本果成道の顕本をいい、その中で本果自行の成道を顕わすを体外顕本、本果化他の成道を顕わすを体内顕本と称しているのである。
《『遺文辞典』教学篇「体内」「体外」の項》