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誕生寺(千葉県鴨川市)【歴史】

たんじょうじ #4778

誕生寺(千葉県鴨川市)【歴史】

たんじょうじ

千葉県鴨川市小湊に所在。
小湊山と号す。
日蓮聖人生誕の地に建つ霊跡寺院である。
聖人は貞応元年(一二二二)二月一六日父の名を貫名次郎重忠、母の名を梅菊といい、この地に誕生した。
伝承によると、その、海上に青蓮華の花が咲き、浜辺に多くの鯛が群れ庭先から清冽な泉が涌き出したといわれる。
この遺跡が現在の蓮華ケ渕、妙の浦、誕生水である。
聖人は幼名を薬王麿と称し、天福元年(一二三三)一二歳にして千光山清澄寺の道善房の門に入るまで「旃陀羅が子」ち、漁夫の子として住した。
やがて仏道修行を積み一六歳で出家得度し名を蓮長と改め、一七年各地に遊学して、学行の研鑽に努めた。
特に比叡山の遊学によって得たのは大乗の真髄は法華経にこそあるという強い確信であった。
かくて建長五年(一二五三)四月二八日、三二歳にして清澄山へ帰り、立教開宗を宣言すると共に、鎌倉へ出て活発な布教活動を展開した。
文永元年(一二六四)、母の病気重く、息絶えたところ一故郷へ帰ったが、この、妙経をもって祈請をこらしたところ窮地を脱し、蘇生され四年の寿命を延ばしたという。
感激された母君は、いよいよ法華経の信仰に励んだが、この場所こそ誕生寺の創まりであり、のちに「菩薩荘厳道場堂」といわれるようになった。
その頃、興津城主佐久兵庫守重貞は、この聖人の神験を聞いて聖人を屈請して説法を聴聞し、やがて深く信敬し一類を率いて改宗する。
その子長寿麿は剃髪して聖人より日保と名を賜り、重貞の弟竹寿麿もこれを見て羨しがり共に出家する。
両名同じく七歳にしてこの草堂に居り退せずして修学する。
この草堂が興津妙覚寺で、開基は日保である。
やがて二人は小湊の浜が聖人降誕の地なることを思い、塔を建て、これを供養し、墳廟を造って寺基を定めた。
に建治二年(一二七六)一〇月、高光山日蓮誕生寺と名づけられ、寂日房日(竹寿麿)が開基となった。
弘安二年(一二七九)聖人より大曼荼羅を授与され、年を追うて繁盛する。
は更に薬王殿を構えて妙日・妙蓮・薬王麿の肖像を安置する。
また一寺を構えて聖人の両親の塚を祠った。
これが今の妙蓮寺である。
その後、明応七年(一四九八)八月、地震と海嘯によって土地陥没し、諸堂悉く流失したので、寺域を妙の浦に移し、堂舎を再建する。
慶長の頃より宗内に不受不施の論起り、正保、慶安の頃、当時日運は関東諸山と共にまたこの説を唱えたため、受不施一派の公訴により幕府の圧迫を受け、寛文五年(一六六五)、当時日明は碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日誠らと共に受不施の説に改めさせられる。
そして同年一二月、幕府より寺領七〇石を給せられた。
しかし元禄一六年(一七〇三)一二月二二日、再び大海嘯に遭い、寺中六烏有に帰した。
に深草元政の弟子、大中院日(第二二世)は寂如院日迨の後を承けて当寺に住し、水戸光圀の外護を得て宝永年中(一七〇四-)または寺域を今の地に移して堂舎を再興し、小湊山誕生寺と改称。
しかし宝暦八年(一七五八)惜しくも類焼の厄に遭い仁王門を残して諸堂灰燼したので、一乗院日闡は、天保三年(一八三二)に起工を始め、同一三年に至る一〇年間という歳月を費して現在の祖師堂を再建した。
この堂宇は雨落ち一八四面にして、大は欅五四本によって支えられる巨大な構築で、当としては内随一の偉観を誇る大伽藍である。
また正八年(一五八〇)正木頼忠が寺領五〇名を寄進、また同一一年には安房の主里見義頼によって若干の地が寄進されている。
宝暦の火災で一衰退したとはいえ、明治初年に日良が寺門を大いに振興してより歴聖相つぎ、寺門の丹精により次第に旧態に復した。
境内には聖人御誕生の折、忽然として湧き出たという「誕生井戸」と幼時、清澄山に登り薬王麿と称したときの姿を写した「薬王麿の銅像」などがある。
《『日蓮辞典』「誕生寺」の項、『日蓮聖人典』(雄山閣)「千葉」の項》

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