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水戸光圀

みとみつくに #3709

水戸光圀

みとみつくに

(一六二八-一七〇〇) 字は子竜、梅里と号す。
おくり名は義公。
徳川頼房の三男、母は谷氏(靖定夫人、法名久昌院)、室は近衛信尋の女尋子。
寛文元年(一六六一)督相続、水戸藩主。
元禄三年(一六九〇)兄頼重の子綱条にを譲り、常陸(茨城県)太田西山に隠棲、ここで没した。
『大日本史』の編纂を始め、農の振興、士道の高揚に努め、後世の水戸学の精神的基盤を形成した。
宗教関係では幕府の寺院整理統制の方針にそい、領内の寺院整理を行い、寛文六年新地の寺院九九七ヵ寺を毀ち、三四四ヵ寺の破僧を還俗させた。
一方古跡の廃寺になっているものを修再興させる等、宗教制度の是正を行い、その寺院も画一的ではなく、母久昌院及び前水戸藩主武田信吉のために新寺を建立保護し、また諸宗諸山の僧との道交も知られている。
日蓮宗に対する関心は、その周囲に祖母養珠院、母久昌院、室尋子らの法華経信仰家があり、早くからあったものと考えられ、ことに母久昌院に対する心に触発されて日蓮団に関わりをもってきた。
これが表面化するのは、延宝三年、(一六七五)久昌院の菩提所水戸経王寺を久慈郡(常陸太田市)稲置にひいて、靖定山久昌寺を建立(同五年久昌院十七回忌に落成)した頃からである。
この久昌寺に付属して学僧養成のため三昧堂檀林を設け、皆如日乗に久昌寺及び檀林の管理運営に当らせ、日乗及びこの檀林を介して身延山や本寺等を始め諸山とのつながりを有するようになり、日蓮団の高僧碩徳をひろく領内に招いた。
特に本寺との関係は深く、久昌院二十五回忌に同寺一九世一心日廷に依頼して法華懺法会を修し、以後これが本国寺恒例の法会となり、また三昧堂檀林講主より同寺二〇世に進んだ隆源日隆との親交ことに深いものがあり、本寺はその外護に報いるため、その「」字を光圀に因み「圀」に改めた程である。
光圀のこうした外護は、近世日蓮団の声価を高める一因となったが、内面の信仰は一切明らかにしなかった。
その教導に当った日乗の記録によって窺い知るのみである。
《影山堯雄『日蓮宗布教の研究』、『日蓮辞典』『史大辞典』一〇巻「徳川光圀」の項

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