本能寺(京都府京都市)
本能寺(京都府京都市)
ほんのうじ
京都市中京区に所在。
法華宗(本門流)の四大本山の一つ。
本能寺は当初は「本応寺」という寺号で応永二二年(一四一五)八品門流の祖・慶林坊日隆が京都油小路高辻と五条坊門の間の京都仏光寺通りに創建された(勧請開山は日隆の伯父の好学院日存)。
即ち寺記によれば妙本寺(妙顕寺)の綱紀粛正を主唱する好学日存・精進日道の二伯叔父らと出寺し油小路高辻と五条坊門(現・醒泉小学校付近)に一宇を建立し本応寺と称した。
永享五年(一四三三)に六角大宮方四町の芒地に移り本能寺と改称す。
〈日蓮聖人-日朗-日像〉等の血脈相承を唱え、本迹勝劣本門八品末法時機相応主義を主張し全国に教線を伸している。
当寺は現在に至るまで地を転ずること四度、天文の法乱、本能寺の変、蛤御門の変等の戦災、天明の大火に遭いながら七回にわたる堂塔伽藍の建立を行う。
今の本能寺は天正一七年(一五八九)秀吉の都市計画(京都)による転地命令を受けて現在地に移り、元治元年(一八六四)の蛤御門の変で全焼、仮本堂を建立、昭和三年(一九二八)に本堂の落慶をみたものである。
開基日隆は僧俗教化のため信心法度一三ヵ条などの諸法度を遺したが、その後も日明(四世)、日禎(五世)、日与(六世)、日侶(一〇世)日承(一二世)など現存二九に及ぶ時機にあった諸法度が、次々に制定され、本能寺の発展と教団の伸張がはかられ、本能寺文書として格護されている。
伏見宮日承の永禄の頃は洛中で本能寺が最も栄え本国寺・本法寺が次に繁昌していたと記録されている。
また鉄砲伝来は種子島にある末寺との関係から本能寺の地位を高め武将の出入りが多かった。
また歴世の中には日与(『教観樹扇録』『法華和語記』『落葉集』)、日承(『法華経略談抄』)、塔中高俊院日甫(立花)などの文化人を出す。
また日隆の遺戒を守り当寺は布教の道場、尼崎本興寺を教学の道場とし、共に山号を用いず、両山一貫首制をしいたが一〇八世以後は別置している。
近来各種の文化事業を経営しながら都心の日蓮門下の法城として発展し末寺二五〇を擁している
《『日蓮辞典』「本能寺」の項、『国史大辞典』一二巻「本能寺(京都)」「本能寺の変」の項》