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日霽(通源・龍華院)

にっせい #3186

日霽(通源・龍華院)

にっせい

(一三四九-一四〇五)
通源、のちに日霽と号した。
足利氏満の第三子で満兼の弟と伝える。
延文五年(一三六〇)一二歳で入洛し、妙顕寺第二世の大覚に付いて出家、大覚示寂(一三六四)後は第三世朗源に随従した。
資聡慧にして学内外を綜べる、性勤修に耐え寒暑雨にも廃せず」と『本化別頭仏祖統紀』は記している。
朗源は永和四年(一三七八)正月一八日ににわかに入寂したため、後職を定めることがなかった。
宿臈等が相議して候補者三人、通源・日実・日成を挙げたが、それぞれに推す所があり議定に至らなかった。
そこで前に御鬮(みくじ)を引いて遺跡を定めようとし、その際、妙顕寺在住中の宿臈一九人・中臈四〇人・若輩五五人の計一一四名は二月一日をもって連署し、御鬮の結果に異議を唱えない旨、衆議をもって条したのである。
前の御鬮は三回たてられ、三回ともに、候補者三人の内最若年で三〇歳の通源にあたった。
通源はのちに月明への付属状の中で「然れば則ち三御鬮、予め以て之を得」と誇っている。
龍華秘書』等によれば、これは「仏意に叶」ったからであり、また「智徳余人に勝れ行徳他人に秀でて世間仏法の才人也」と記されるが、おそらく門閥を重んじて鬮は通源に下ることに決定していたとも考えられる。
日実・日成は妙顕寺を退して妙覚寺を創し、像門初めての別立がなされた。
前の鬮より約一ヵ月後、中臈正源と共に日実・日成を音信不通にすることを起請文に誓った九名中の五名は、二月一日には不在のため連判していないのを誘い入れてのことであることからも、日実・日成への同情的態がうかがわれる。
第四世継承の通源は名門の出身であることから、公武に接近し多大の値遇を受けた。
後円融院より勅願寺、後小松院よりは寺領安堵と勅願寺、権大納言通氏よりは寄進状、将軍義満より寄進状及び寺領安堵・祈願寺の、綸旨・御書を得ている。
この頃の宗門状勢は什門日什を始めとして諸門の上奏諫暁など活発であったことから、妙顕寺内部でも通源の行動や謗施不受の厳制を等閑視せんとする態度に批判の目を向けるものも出て、ついに三箇の化儀不当を挙げて、日誉(弘経寺)・妙智(妙願寺)・定厳(妙経寺)が別立するに至った。
三箇の化儀不当とは一に通源の公卿に迎合した直綴の着用、二には稲荷社に稲荷の本体と共に題目を祀ったこと、三には日蓮聖人以後妙顕寺歴代五師の回向の存略である。
更に外的には日蓮宗全般の化導の活発化は他宗の注目を引き、叡山は通源の公武接近を嫉視していた。
日什が奏聞によって二位権少僧都に叙せられ、その推挙は廷臣と通源によると考えられている。
嘉慶元年(一三八七)、通源が四条櫛笥の地を安堵する綸旨を後小松院より賜ったその年、叡山徒は妙顕寺を破却し通源は若州小浜に避難した。
日霽の称号は、この頃からであろう。
小浜にあって日霽は京都・丹波小野・備後を往来弘通し京都に還住をはかった。
このことは遠離於塔寺の金言に叶うものとして、真間日宗は門下の良仙を、日什は弟子大輔坊を遣わして慰問し、のちに日什自身も小浜へ下り、この試練こそ諫暁の好であると誘っている。
しかし日霽はそれには動かず、小浜在住七年後の明徳四年(一三九三)京都還住を許され、義満より押小路以南・姉小路以北・堀川以西・猪熊以東の八町歩の寺地(四条櫛笥の八倍)を寄進された。
妙顕寺の寺号が山徒の妨害により使用できないため、比企谷妙本寺の寺号を移して妙本寺と号を改め、再興した。
帰洛後日霽は寺門経営に力を注ぎ、後小松皇の綸旨、将軍義満の御書を得て祈願を修している。
また叡山側が「法華の宗号を沮ん」だ際、宗号の綸旨をもって対論したと伝えられるが、日霽を宗号論の先駆者と見るのは後世の日霽への荘厳であろう。
応永一〇年(一四〇三)一月、月明に付法し同一二年一一月四日、五七歳をもって入寂。
著書に『顕底鈔』二巻。
なお門人の立本寺日実は日霽の寂後、師を崇めて立本寺第四世とした。
《『日蓮団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『日本仏人名辞典』「日霽」の項》

図版

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