日賢(寂静院)
日賢(寂静院)
にちけん
(一五八七-一六四四)
字は春甫、寂静院と号す。
天正一一年の生まれで「松崎顕実寺文書」によれば「本国寺門徒にて俗姓は妙顕寺の檀那の子也」とあるから京都辺の人であろう。
幼にして本国寺究竟日禛のもとに投じ、やや長じて関東に下って諸檀林に学び、元和元年(一六一五)の三〇余歳のころ学誉・徳行一世に高く、これより寛永の初めにかけ四〇余歳のころは飯高・松ケ崎・中村の三檀林の能化となり、慶長一八年(一六一三)三一歳の時すでに中山法華経寺一九世に迎えられているが、このとき本阿弥一〇世光室日栄が施主となって法華経寺大客殿を建立している。
また心性日遠の『色心不二門義』に対する破書『色心不二門義釈答』には「正中山沙門日賢 寛永四年七月八日」とあるから慶長一八年のころから一四、五年ののち再住したものであろうか。
当時上方三山の輪番は円滑でなく、家康は慶長一九年正月、三山輪番制の確認を令ぜしめている程で、日賢は上方三山の法脈でないのに中山に迎えられていたのである。
当時関東では伝統的不受不施義を主張する関東諸山と、王侯除外不受不施義を主張する身延を盟主とする新来の関西系諸山の間においてこの問題があらそわれ、また観心論について池上本門寺の無問日詔は四明の山家正統説をたて、日樹・日賢らがこれをたすけ、これに対し関西系の心性日遠・円是日耀らは山外正統をたて、かくして両者それぞれに異とする所によって拮抗対立したのである。
しかるに寛永七年二月身池対論によって池上日樹ら七人は流罪と決し各々の配所に赴いたが、日賢は遠州横須賀の井上河内守正利のもとに預けられることとなった。
然るに正利は日賢の徳行に感じ、本願寺をたて寺領百石を寄せ帰依するに至ったのである。
日賢晩年のころ、寛永一八年(一六四一)五月、本住寺宛の書状によれば、当時流人に対する処遇が寛大にすぎるというので幕府は諸国の国主に注意を促す布告をしたようである。
この通達に驚いた老臣たちは主君へ累を及ぼすことを恐れ日賢に隠居せんことを勧めたので日賢は後を弟子寂澄に譲って閑居し同二一年八月二二日六二歳をもって入寂した。
日賢、本源寺にあるとき、すなわち松崎・中村檀林の能化であったころ、その会下にあった円韓日迢は功成って八品派本山妙蓮寺に迎えられたが、傲慢不遜で隠湿偏屈な性格のため同門の人々より嫌われ擯出をうけ、天台宗に改宗して舜統院真迢と改め、寛永一四年『破邪顕正記』を著して日蓮聖人並びに宗門を罵詈し謗言を加えた。
よって日賢は同一八年『諭迷復宗決』『諭迷復宗決別記』を著して往年の門下に対し諭し破折するところがあった。
この外に日領、日航、日遵らがこれを破し、これを機として宗内は対真迢との宗論で受不受論争の外で大いに気勢をあげたのである。
日賢には上記の著の他に『指要鈔釈疑』一巻、『止観綱要』五巻、『法語心鑑』一巻、『三師標題』二巻その他多くの著述がある。
《『日本仏教人名辞典』「日賢」の項》