日法(和泉阿闍梨)
日法(和泉阿闍梨)
にっぽう
(一二五九-一三四一)
和泉阿闍梨日法と称した。
中老僧で日蓮聖人に直参した入で、俗姓は徳永光長といい、幼少より聖人に隨身した熊王丸である。
岡宮光長寺の山号、寺号は日法の俗姓を取って名づけたといわれている。
日法の伝道地域は主に現在の静岡県東部と山梨県勝山から都留郡にと及んでいる。
即ち甲州(山梨県)山梨部の真言宗金剛山胎蔵寺を改宗して休息山立正寺とし、また郡内勝山の真言寺を改めて妙本寺を建立した。
文永年中(一二六四-七四)には駿州(静岡県)岡宮におもむき、天台の寺の寺主空存を教化して、日春(空存)と共に徳永山光長寺を創建した。
また日法は世に彫刻日法といわれ、聖人尊像彫刻の名手で、その名を知られている。
今、日蓮門下名刹に師の手に成る祖師像が多く存している。
日法は常に聖人のそば近くあって、特に『連々御聞書』(日法筆、聖人講義ノート)に見られる如く身延では直接聖人より教えられ、修行と学習にはげんだのである。
聖人の終焉には多くの弟子や檀越と共にその最期をみまもり、翌一四日、池上の東藪で遺骸は荼毘に付された。
その時、日法は宰領を務め、灰中より日蓮聖人の舎利を感得して、自ら赤木の木で五輪塔を刻み塔中に収め、更に箱を造ってそれを収めた。
凾裏に「本門日蓮大聖人御舎利 弘安五年十月十三日 武州池上東藪」と自書、奉持して光長寺へ奉安した。
聖人滅後の身延の墓所を直弟子たちが輪番を作り守った祖塔輪番にも他の弟子と共に加った。
日法は聖人の代理として甲駿に派遣されたのであるが、その教線基盤をいっそう強力にするために子弟教育に大いに力を注いだ。
光長寺三世、侍従阿闍梨日景を始め、延慶年中(一三〇八-一〇)には兵部阿闍梨日巧、大輔阿闍梨日円、近江阿闍梨日乗、兵庫阿闍梨日光、三河阿闍梨日善、日学らの弟子は光長寺塔頭支院を建立した。
また日乗は休息立正寺三世でもある。
日妙は小立妙法寺三世となり、転阿闍梨日性は沼津本光寺、日授は同正見寺を建立した。
ここに日法とその弟子は祖命の甲駿弘通をはたした。
即ち寺を建立し、弟子、信者を作り教線を弘めて甲駿における法域を固めたのである。
弘安二年(一二七九)には聖人より本尊一幅が授与される。
日法の真蹟は本尊三幅の外『連々御聞書』『御法門御聞書』『後五百才合文』(写本)『下山抄』(写本)『山門申状』(写本)がある。
門下初期の教団の中にあって甲駿地方の教線を拡張してその基盤を作った日法の功績は甚だ大なるものがある。
暦応四年正月五日、八三歳をもって遷化した。
《『遺文辞典』歴史篇「日法」の項、『昭和新修』別巻「和泉房日法」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項、『日本仏教人名辞典』「日法」の項、『国史大辞典』一一巻「日法」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』》
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