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日堯(義弁院)

にちぎょう #2533

日堯(義弁院)

にちぎょう

(一六二〇-八四)
字は覚賢、義弁院と号す。
備前御津郡(現・岡山県岡山市)の生まれ。
上総興津妙覚寺(千葉県勝浦市)の歴代。
平賀日述・野呂日らと盛んに不受不施義を宣説したが、寛文年の手形問題で、寛文五年(一六六五)一二月三日、京極百助高豊の預りとして、雑司谷法明寺日了と共に讃岐丸亀(香川県丸亀市)に流の命をうけ、配流された。
丸亀にあること一九年、貞亨元年二月一〇日遷化。
世寿六五歳。
受不施後六聖人の一人。
まず日堯の行動において特筆すべきことは、いわゆる日指派と津寺派とに禁制不受不施派を二分する大件に大きく関係していることである。
ち天和二年(一六八二)九月、法立宗順が岡山栄町(岡山市)の内信者宅において、内信者共々に仏前を拝し、また同一〇月、同町丁字屋九郎大夫のところで、内信者の看経導師を務めたことが問題となった。
ところがこの宗順の行為は、昨年美作久世村(岡山県久世町)で法立浅島助七が、内信導師をしていたのを倣ったにすぎないことが判明した。
これらは当一般的儀礼であったにもかかわらず、違法・特殊の儀式であると指弾されたのである。
ところで助七は、春雄院日雅が彼に授与した本尊を、看経の講の時掛けて礼拝しただけで導師はしなかったと弁解した。
この本尊は久世村内信の看経講に授与されたもので、法立助七外講中の内信者六名の法名が列記されたものである。
この書例は内信と清者との信謗混淆を招くという批判が打ち出されたのである。
そこで春雄院側では、これらの書式は岐丸亀の流人僧日堯が因(鳥取県)の信徒に授与した「法華如説行者内信清浄士女授与之」にあるとした。
内信と如説の行者は「一結」で等しく不受の行者であって、これがもし謗法ならば、日堯もまた謗法の同類とならなければならないと主張した。
これらの問題は法立の地位、即ち法立(清者)が内信(濁者)の導師を務め、共に看経礼拝することは、清濁混淆して功徳を失う謗法行為であるという批判をうけ、また法中が授与する本尊も、清濁両者を交えて授与されるならば、同様の科となると指摘されたことが発端である。
ところが岡山の津寺の法中津寺庵の覚照院日隆はこの問題を日向に流されていた日講にはかりその教導を得て、清濁混淆の謗法であるとする主張をなした。
それに対し、日指の法中日指庵の覚隆日通は伊予吉田の日述の清濁混淆の看経、修行の指導を旨としたが、日述すでに入寂(和元年=一六八一=九月)後のことなので、岐丸亀の日堯・日了の指導を受けた。
そして日述と同様の示を得たので、日隆の主張を排撃したのである。
初め法立間の問題であったものが法中の清濁問題まで伸展し、更にそれぞれの当者の感情問題も加わって、内紛は長引き、そのに日堯は遷化した。
この内紛に中の法灯智閑日相や日らがそれぞれ調停斡施を試みるが不調に終り、遂に二派は訣別するのであった。
つまり日指庵の覚隆日通を支持する日堯・日了一派を日指派(堯了派ともいう。のちの日蓮宗不受不施派)と、津寺庵の覚照院日隆を支援する日講らを津寺派(講門派ともいう。のちの日蓮宗不受不施講門派)という二派に分流するに至ったのである。
次に寛永の流僧がそうであったように、寛文の流僧である日堯もまた不受法の再興を確信していたようである。
それは延宝八年(一六八〇)一二月十八日の日堯の著(日了が加判)になる『鴿相試合記』にみられる。
ちこの書は日堯が八幡大菩薩の霊鳥である鴿(鳩)の飛んできたことを瑞相と考え、寛文一一年(一六七一)より延宝八年に至る一〇年間に、赦免再興の期を種々占ったものを書き止めたものである。
しかし日堯が流謫の中に赦免と再興を夢見つつ鴿相を占って、憂愁を払っているさまは不受禁制二〇〇年の歴史から見れば憫然たらざるを得ないようである。
《宮崎英修「日本における法華信仰とその殉教史」『法華経の思想と文化』、同『日蓮宗の人びと』、白髭武徳「日蓮宗不受不施派」『日本仏教基礎講座』七、『宗全』二一巻、『日本仏人名辞典』「日堯」の項》

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