日円(慧雲院)
日円(慧雲院)
にちえん
(一五六五-一六〇五)
字は恵照、恵精、のち恵性、慧雲院と号す。
下総飯高(千葉県匝瑳市)で、千葉五郎末胤の後裔という椎名五郎左衛門の子として生れた。
その地の昌山妙福寺日自について出家、のち身延一八世日賢の弟子となった。
京都松ケ崎で学室を開いていた教蔵院日生は、下総香取市飯塚の光福寺で檀林教育を行っていた叡山での同学、要行院日統をたすけるため、天正五年(一五七七)に三〇人余の門下を連れて飯塚に参講した。この時わずか一一歳の日円は、その会下に加わった。
日統の没後その後継者となった日生は、飯塚の学侶に排斥され、やむなく内山村に講室を移し、次いで飯高の邑主平山刑部や昌山妙福寺日因に招かれて妙福寺で開講した。
ほどなく隣接地に学室を構えたのが、のちの飯高檀林法輪寺である。
日円はこの間日生に随従師事し、学業に励んだという。
多年の研鑽を経て妙福寺六世の住持となり、飯高の首座の席に昇階した。
慶長四年(一五九九)に飯高の化主法雲院日道が身延に晋董すると、第三世化主の後継問題で学侶の間に二派が生じた。
一は当代最高の学匠、京都本満寺一如院日重を迎えんとし、一は日円を推挙、互いにゆずらなかった。
これを知った日円は中村北場の浄妙寺に蟄居、飯高を去った。
一説では、このとき飯高の代表中正院日友が京に上り、日重に懇請したが、代りに弟子心性院日遠が推薦された。
当時まだ二八歳の日遠では化主としてかなり不安視されたのであろう。日円にも彼を拒む心があって蟄居したのだという。
また、ほかの説では、日円は日重の学問的声価は自分と比肩すべきものではないとして飯高の衆侶を説得したが、これを聞き入れず朋党を結んで対抗するに至ったので、やむなく飯高を去ったとも伝える。
日円が浄妙寺に退くと、彼の学徳を慕う学侶たちは、あげて追従した。
日円はこれを制止したが聞き入れないので、やむなくここで開講することになった。
この頃同じ中村にある日本寺(当時は瑞光寺)が後住を欠いていたので、日円に瑞世することを勧めた。
彼もこれに応じて一五世の法灯を継ぎ、日本寺の旧称にもどし、ここに学室を開いた。これが中村檀林の濫膓で、日円、三三歳のときである。
日円は、その教学面からみると強義の不受不施論者であったらしい。
飯高を退いた理由は、日重門下の受派の圧力を避けたためとも考えられる。
また彼の門下から、寛永不受論の中心的人物となった池上の長遠院日樹、中山の寂静院日賢などを輩出したことも、そのよき証左となろう。
日本寺で講説すること六年、幾多の学侶を養成したが、慶長九年三月、飯高の化主日遠が身延に晋董する後をうけて第四世の能化に就任し、飯高に帰った。
この帰任は、日遠が彼の学徳の深さに感じ、固辞する日円を再三促し屈請したとも、日遠の実力と道心を知った日円が、その来講を拒んだ心を改悔して和合し、互いに契約の本尊を取交わしたとも伝わるが、事実は明らかでない。
飯高の化主になって約一年後、慶長一〇年六月四日、三九歳の若さで講務中に急に遷化した。
この急逝は檀林内の反対派の学侶による暗殺であるとする説もあるが、これを徴すべき史料がない。
遺命により飯高の上人塚の傍に葬られた。
在世中に飯高蓮福寺、大寺長福寺、内山妙典寺などを開創。
著述には『顕性録解』『金錍論私記』『指要鈔釈答』『掌中記』『三師標題』『本尊鈔私記』『修性心印』『色心不二門釈答』『受不受異目当家立義鈔』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『飯高歴代考略』(承教寺文書)、『昌山妙福寺過去帳』、『諸檀林並精貞法類』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『日本仏教人名辞典』「日円」の項》