十四謗法
十四謗法
じゅうしほうぼう
十四種の法華経誹謗の相貌。
「十四誹謗」ともいう。
法華譬喩品の偈文に謗法の相貌が説かれているのを、天台大師は『法華文句』巻五に「先づ悪の数を引く、必ず悪謗を起しては悪果報を獲、是の故に大悲為に説くべからず」と釈したのみであるが、妙楽大師は『法華文句記』第五において「悪因に十四あり」と悪道の因を法華経によって十四種あげた。
更に日蓮聖人は『松野殿御返事』に悪果を列ぬとして「悪の因に十四あり。
一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善也。
此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし。
恐る可し恐る可し」(定一二六五-六頁)と強誡されている。
十四謗法の内容は
(1)憍慢(きようまん)は自ら憍(おご)り、慢(たかぶつ)て正法を聞かず随順しないこと。
(2)懈怠(けだい)とは正法修行を怠ることで、謗法を断じ、正法を宣揚しないこと。
(3)計我(けいが)とは我見で、正法を曲解すること。
(4)浅識(せんしき)とは自己の浅薄な知識をもって正法を解釈すること。
(5)著欲(ぢゃやくよく)とは利己的で自己の意識に執着して正法を顧みず軽んずること。
(6)不解(ふげ)とは正法を正しく了解したと思い込んでいる権実雑乱・本迹を弁えないこと。
(7)不信(ふしん)とは正法を信じないこと。
(8)顰蹙(びんじゅく)とは正法を信ずる者を嫌い、憎み、眉をひそめること。
(9)疑惑(ぎわく)とは正法を疑い、疑義を挿むこと。
(10)誹謗(ひぼう)とは正法を謗ること。
(11)軽善(きょうぜん)とは正法を軽しめ蔑ろにすること。
(12)憎善(ぞうぜん)とは正法を憎み反対すること。
(13)嫉善(しつぜん)とは正法を嫉み妨碍、敵対すること。
(14)恨善(こんぜん)とは正法を恨み、敵対すること。
この内、憍慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗は教法に対することで法を謗るものであり、軽善、憎善、嫉善、恨善は持者に対することで人を謗るものである。
更に身・口・意の三業に約してみるならば、身業に関わるものは顰蹙、口業に関わるものが誹謗、意業に関わるものが憍慢・計我・浅識・著欲・不解・疑惑になるとされる。
また軽善・憎善・嫉善・恨善は三業に互いに関わり合っている。
『念仏無間地獄抄』には「法華経第二譬喩品に云く 若人信ぜずして此経を毀謗せば 則一切世間の仏種を断ぜん。
其人命終して阿鼻獄に入らん。
一劫を具足して劫尽き更(また)生れん。
かくの如く展転して無数劫に至らん云云」(定三四頁)の文を引き、謗法の根本を示し、それを演繹的に「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為す」(同)と示されるように、十四種の誹謗があるとしながら、その内の「不信」を極重罪とし、根本的謗法に位置付けているのである。
続篇所収の『新池御書』にも「終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此経にあひ奉りぬれば、諸罪は霜露の如く法華経の日輪に値ひ奉り消ゆべし。
然れども此経の十四謗法の中に、一も二もをかしぬれば其罪消えがたし。
所以は何ん。
一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争か一仏を殺す罪に及ばんや。
法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪也。
此のをきてに背くを謗法の者と申す也。
地獄おそるべし」(定二一一九頁)とある。
《『遺文辞典』歴史篇「十四誹謗(じゅうしひほう)」の項》