分派離脱
分派離脱
ぶんぱりだつ
正応元年(一二八八)一一月、祖滅七回忌の時、茂原(千葉県)の日向を身延の別当に定めたので日興は身延を去って別に富士南麓に一門家を立てた。
かくして一味の法水はついにその流れを分つに至る。
これより日興一門を富士方(本勝迹劣)とし、その他を鎌倉方(一致方)と呼び、ここに六長老は分立した。
永和四年(一三七八)四条門流の分張は京都妙顕寺より妙覚寺が他の三ヵ寺と共に分立。
文禄四年(一五九五)に始った受と不受との論争は、慶長四年(一五九九)京都妙覚寺日奥と妙顕寺日紹と大坂城中にて対論の結果不受不施を主張した日奥を対島に遠流したことにより、全教団が二派に分かれる端緒となった。
寛文五年(一六六五)不受不施派は分立、元禄四年(一六九一)再度の大弾圧により、不受不施派は更に二派に分かれるに至った。
降って昭和一一年(一九三六)二・二六事件は軍部の政治界への進出と共にあらゆる民衆運動への弾圧の移行となり、やがて昭和一四年二月八日、貴族院特別委員会は宗教団体法案を提出し、宗教統制へ一歩踏み出した。
この団体法は監督規定が中心のねらいで、神道は宗教圏外におかれて国教的な保護をうける(官幣社・国幣社が官費の支給をうけ、神官は官史待遇をうける等)反面、諸宗教は神道に従属する形となって多くの弾圧をうけた。
昭和二〇年一〇月四日、ポツダム宣言により宗教及び思想の自由に基づき、国家的神道は除去され、宗教団体法は廃止となり、これまで宗教団体法によって規制されていた一切の禁止行為が解除され、宗教法人の設立は規則の作成登記によって簡単に成立することができるいわゆる宗教法人令が公布された。
昭和二〇年一二月二八日である。
このため宗教関係及び類似団体が雨後の筍の如く発生すると共に、宗務当局に対する不平不満を理由に寺院の離脱がしきりに生じた。
昭和二一年遂に中山法華経寺は日蓮宗における本尊観について教団との間の違いを理由として、離脱し新たに中山妙宗を立てた(昭和四八年本宗に復帰)。また昭和一六年日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三宗が合同して日蓮宗となったが、合同当時の有力者の遷化と終戦後の宗制の変革により、三宗合同当時の約束事項が履行されぬままに、離脱単立の途が容易になったのを機会に単立寺院が目立った。
昭和二三年京都妙満寺は顕本法華宗を称し、京都要法寺また日蓮本宗といい、静岡西山本門寺等相ついで分立した。
昭和二四年行堂再開に踏み切った宗務当局は遠寿院行堂の管理経営権を主張する法華経寺との混乱を避け身延の信行道場を使用し遠寿院の出張所として開堂することを決定し、更に宗立行堂以外の入行者の処分が規定されたことが原因となり遠寿院は同年、中山、行徳方面の一部寺院と共に開宗七〇〇年の四月二八日離脱した(遠寿院は三一年五月五日本宗に復帰した)。
昭和二六年二月、国会に提出された宗教法人法案は三月三〇日参議院本会議を通過、正式に成立した。
この法人法の施行により設立・規則の変更・合併等に対して行政官庁の権限が強化されたことと、また一方諸寺の財政難と当局への不信とはやがて宗務院課金の滞納となって現れ、地方寺院の離脱がこの頃より次第に活発となり、宮崎県、神奈川県三浦地区、岡山県、広島県等で集団離脱したのをはじめ、全国で二〇〇余ヵ寺が本宗を離脱し単立となった。
この頃伊東仏現寺の離脱問題が起ったが、離脱反対革新同盟等の力により五月一二日伊豆法難会の聖日に円満解決した。
しかし佐渡一谷の妙照寺は遂に単立の登記を完了した。
かくしてこれら離脱寺院はその後いずれかの教団に属したが、残る六〇余ヵ寺の単立寺院に対して昭和五二年六月、日蓮宗宗務総長、松村寿顕は本宗に復帰されるよう要請状を送り引続いて交渉がもたれている。
《影山堯雄『日蓮教団史概説』、中濃教篤『近代日本の宗教と政治』、『日蓮宗読本』》