妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

頂妙寺(京都府京都市)

ちょうみょうじ #5209

頂妙寺(京都府京都市)

ちょうみょうじ

京都市左京区に所在。
聞法山と号す。
日蓮宗由緒寺院の一つ。
中山法華経寺第六世貫首日薩の弟子に当る日祝(一四二七-一五一三)が、土佐(高知県)守護の細川治部少輔勝益の外護を受けて、文明五年(一四七三)に創建した。
京都二十一箇本山の一つとして栄えた。
檀越細川勝益は、下総(千葉県)からはるばる上洛して、草庵を結んで説法をする日祝の法席に列し、宗を改めて受法したと伝える。
勝益はやがて「現世安穏後生処」を祈るために寺地を寄進し伽藍を造営し祈願所とした。
文亀二年(一五〇二)六月四日に卒した勝益は、頂妙寺に葬られたと伝える。
また、この寄進状によると、当寺の寺地は北は錦小路、南は四条、西は萬里小路、東は富小路に至るという広大なものであった。
現在の地に移転したのは江戸代の初期、寛文一三年(一六七三)のことであると『雍州府志』に伝える。
開創当初の頂妙寺は他の日蓮宗の本山におけると同様に、まことに活気にみちていた。
日蓮宗信者として有名な公の近衛政・尚通父子は頂妙寺へ参詣して説法を聴聞することしばしばであった。
明応七年(一四九八)には住持の日祝みずから近衛政を訪ね、畠山尾張守尚順に宗旨法文を演説し、授法したことを伝えている。
日祝と近衛家との関係はこの後も続き、近衛尚通も父と同様に親密な交わりを結んでいる。

頂妙寺は京都二十一箇本山と共に隆盛を続け、一六世紀に入ると法華一揆の根拠地として重要な役割を果たすようになる。
ところが文五年(一五三六)に起った文法華乱によって伽藍を焼かれ、堺に敗退した。
そののち文一一年に帰洛の勅許が出ると、他の本山と同様に頂妙寺もやがて高倉のもとの地にもどり、復興をとげたのである。
正七年(一五七九)五月二七日、安土城下の浄厳院を舞台に織田信長の面前で行われた日蓮宗と浄土宗の宗論、即ち安土宗論に、頂妙寺は重大な関わりをもった。即ち頂妙寺の時の貫首日珖は日諦・日渕と共に日蓮宗側の問答者として臨み、負けを宣せられて捕われの身となった。事は宗門の運命に関わるとの判断から、織田信長と浄土宗知恩院に対して詑証文をいれ、ようやくなきを得た。
やがて豊臣秀吉が政権を掌握すると、知恩院へ差し出した詑証文が正一三年に秀吉の手によって返し渡された。
更に元和元年(一六一五)には山城(京都府)田中郷の内の二一石が徳川家康から寺領として与えられている。
この後、日珖を貫首とする頂妙寺は徳川康の権力に接近していく。

ちょうどこの頃、中山法華経寺(千葉県市川市)では、日常以来伝え来たった霊宝の散失が問題となった。
そこで文禄三年(一五九四)七月二〇日の『法華経寺四院主連署回状』による、門末一同の日珖の貫首就任要請を受けて、日珖は中山法華経寺第一二世の貫首に就任した。
これを始めとして頂妙寺日暁・本法寺日通と次第し、これに堺妙国寺を加え頂妙・本法・妙国の三寺貫首による中山法華経寺輪番制が成立した。
これによって頂妙寺は中山法華経寺の直末となり、その貫首は六年に一の割で三ヵ年の関東滞在が義務づけられるようになる。
寛永一〇年(一六三三)正月一九日付の、いわゆる「寛永の寺院本末帳」によれば、頂妙寺は本法寺・妙国寺と共に末寺の筆頭に挙げられ、寺領二〇石を有している。
またこの帳には「頂妙寺の帳」が最後にあり、その末寺として堺妙寺を始め一三ヵ寺が連記してある。
寺の場合は中山法華経寺の末寺ともなっていて矛盾するが、これは全的な本末制が確立していない段階のことで無からぬ点である。
このような三山輪番制は様々な問題を内包しながら幕末まで続く。
頂妙寺はこのように政治と宗教のからみあいの中で、数奇な運命を辿った寺院といえる。
因みに頂妙寺山門の二王像は運慶と快慶の作といわれ、江戸時代には霊験ありとして盛んに信仰された。

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