身延山大学(旧・身延山短期大学)
身延山大学(旧・身延山短期大学)
みのぶさんだいがく
淵源は弘治二年(一五五六)身延山第一四世善学院日鏡が西谷に学室「善学院」を創立して学徒を教育したのをもって起源とする。
祖滅二七五年であった。
五〇年後の慶長九年(一六〇四)第二二代心性院日遠の時代になって規模を拡大し、学制を整え「西谷檀林」と称した(時に身延檀林とも呼んだ)。
爾来時に盛衰はあったが、よく存続して、明治七年(一八七四)、第七三世新居日薩は、新時代に則して山内諸改革を行い、西谷檀林を「身延檀林」と改めた。
後更に中教院、大檀支林、宗義専門学校、小檀林と変遷し、明治三五年になって、宗門教育機関統一化の気運に際して、各地の小檀林は全面的に廃止されたが、身延山は独自に四年制の小学林を設置した。
またこれとは別に明治二六年第七六世中田日阜は祖山大学院を創設し、自ら教頭職に就き、本間海解を教師に任じ、広く宗内の英才を身延に集めて教育した。
同三九年「大」を削り祖山学院と改称した。
次いで同四五年に祖山学院と小学林が合併して、高等部三年、中等部五年となった、更に昭和一六年に高等部は身延山専門学校に昇格した。
中等部はそれ以前昭和十一年(一九三六)に四年制の祖山中学林となっていたが、一六年二月に祖山中学となった。
昭和二三年中学は高等学校に、専門学校は翌二四年に宗教科二年制の身延山短期大学に昇格、同二九年中学校教員免許資格が認可され、翌三〇年宗門の将来を担う法器養成の充実を期して三年制の短大に改めて今日に至った。
顧るに大正の初期、身延第七九世日慈の代に学園内外に亘り従来見られなかった大きな進歩があった、後に立正大学長に就任した関本龍門は大正二年四月教頭に迎えられ、時の山務監督武田宣明は学監に就任して逐次教授陣を充実し、大正七年福井県の篤信青山市之助は深敬院長綱脇龍妙の斡旋を受けて、浄財数千金を寄せて新校舎を建設した。
それまでバラバラであった教室が一棟に納まり整然となった。
これも五〇年を経過して昭和四二年(一九六七)に現在の校舎、その他の施設が建設された。
規則上学長には法主が就任するが、実質上の学園責任者は学頭、及び高等学校校長である。
前記関本龍門の教頭就任以降左記の人々が就任した。
森田日教、再任関本竜門、富木堯広、高田恵忍、遠藤是妙、片山随英、松木本興(以後学頭と称す)、室住一妙、里見泰穏(現在)。
《『棲神』、学則、『身延山史』、『天鼓』》
【補記】
上記は昭和五六年発行『日蓮宗事典』掲載の内容である。
身延山短期大学の学生募集は平成六(一九九四)年度まで。平成七年(一九九五)年度より四年制大学に改組され、身延山大学となった。短期大学は学生募集を停止し、平成九年(一九九七)八月五日、正式廃止された。
現在、身延山大学には「日蓮学専攻」、「仏教芸術専攻」、「福祉学専攻」の三つの専攻課程が設置されている。
また平成二九年(二〇一七)には国際日蓮学研究所(それまでの東洋文化研究所を名称変更)が設立され、日蓮教学、仏教学、仏教文化等に関する調査・研究が行われている。