本門寺(静岡県富士宮市西山)
本門寺(静岡県富士宮市西山)
ほんもんじ
静岡県富士宮市に所在。
富士山と号す。
もと興門派八本山の一つ。
開山は日代(一二九四-一三九四)。
日興は身延離山後、大石寺・重須本門寺を中心に活躍したが、大石寺を日目に、重須を日代に譲って正慶二年(一三三三)寂した。
日興の寂後、重須の地頭石川実忠は日妙に帰依し日代をしりぞけんとした。
日代と日妙の対立は、この年の一〇月、石川実忠が病床にあった時、日妙が実忠の枕頭で陀羅尼呪と普賢呪を読んで祈祷したところ、日代はこれを本迹一致の修行、大謗法と責め、以来日妙に読経をさせなかったという。
翌年の建武元年(一三三四)正月日代は大石寺内にある日仙の坊において日仙と方便品の読不読について論を諍い、日代は方便品読むべしと主張したのである。
ところがこれが重須における日代と日妙の継承問題にからんで発展し、康永の初め(一三四三)日代は地頭石川実忠の圧力に屈し、日代一門は鎌倉方に与同する本迹迷乱の徒として重循より擯斥されるに至った。
日代は日興譲状、実忠の父妙源の寄進状等を所持して重須を退出し、西山の地頭大内氏の外護によって西山に一寺を創建しここに拠った。
西山は重須と同じ本門寺の寺号を称し、以後両者はその伝統の正閏を争い、それがために真偽未了の偽書謀書が次々に作られ、あるいは西山が大石寺と結び重須を攻撃し、重須は保田の妙本寺と組んで西山や大石寺を攻撃するなど内訌を繰返し来った。
これに対し京都要法寺日辰は弘治二年(一五五六)より永禄二年(一五五九)にわたる間、西山、重須に下ること二度、両者を説いて和融の道を開かんとした。
しかし両寺和睦は西山開山日代を重須に加歴し還住せしめねば無意義であると考えた日辰は和睦の斡旋を止めたのである。
その後京都上行院日春が後をうけて日代加歴を不問にして両寺和睦を成立させ、日辰の功を奪った。
しかし結局日代の加歴の問題は除かれて従前の通りであったから真の通用とならず、間もなく日春は西山に請ぜられたが再び両者は不和になっていった。
天正九年(一五八一)日春は重須に伝えられている日興八通の譲状は日代に与えられたものであるにもかかわらず重須は譲状を無視し日代を擯出して重宝を横領していると、武田勝頼に訴え、勝頼は奉行増山権右衛門をして重須の重宝一〇〇余点を没収・押領させるに至った。
そこで重須の当住日殿は甲州にのぼり、御本尊以下の重宝を還住せしめられんことを請い訴訟したが勝頼はこれを裁決せず、止むなく日殿は帰寺し、正御影の宝前に断食祈願して翌一〇年二月五日ついに憤死した。
しかるに同月信長の武田攻めがあり、徳川家康が重須の地に来たので重須前住の日出は重宝還住のことを愁訴した。
三月勝頼が亡くなったので、家康は重須の重宝を還住せしめた。
また西山も翌一一年一〇月五日家康から諸役免除の朱印を与えられて双方面目を失うことなく、以来表面的には和解するに至った。
西山本門寺は江戸時代には寺領二一石六斗余を有した。
安政二年(一八五五)一〇月の大地震に遭って本堂・御影堂・垂迹堂等倒壊し、諸堂また大破したが、その後復興に努め、現今本堂・宝蔵・鐘楼・総門等がある。
明治九年(一八七六)には重須(北山)本門寺・大石寺・小泉久遠寺・妙蓮寺の富士五山と保田妙本寺・伊豆実成寺・京都要法寺と共に興門派八本山の一つとなったが、その後単立寺院として何れの宗にも属さず孤高を格守して現在に至っている。
寺宝に日蓮聖人の真蹟、日興の『御遷化記録』ほか諸師の遺墨多数を蔵する。
《『日興門流上代事典』「西山本門寺」の項、『国史大辞典』一二巻「本門寺(静岡・芝川)」の項》