日護(中正院)
日護(中正院)
にちご
(一五八〇-一六四九)
字は順性、中正院と号す。
丹波国(京都府)与謝野町、市村佐助の子として天正八年五月に生まれた。
一一歳にして父を失い、一五歳の時妙正寺において得度、慶長九年(一六〇四)二五歳にして母の死をおくるや関東に下り飯高檀林に学び、三六歳のとき「弘宗和生は我宗の素懐」であるとさとり、諸国を巡歴、遊化して多くの士庶を入信、受法せしめたが、遍歴の途次四一歳の元和六年(一六二〇)播州(兵庫県)明石に止まり草庵を結び留まること三年、この間たまたま仏像を刻んだところ、その相好円満荘厳の像を得たので専心造像の刀法、彩色の技法を学んで自得し、四三歳京にのぼり東山東漸寺の側にひそみ、また嵯峨小倉山常寂光寺にあって多くの仏像を刻み、また八センチばかりの立像釈尊を千体作るごとに約一メートルの立像釈尊を作って京都妙顕寺・本国寺に寄せ奉安した。
このころ造像の名手としての日護の声名はようやく洛内外の上下の間にかまびすしくなり、縉紳、后宮、妃嬪に至るまでその像を求め、この像を縁として菊亭大納言経季、冷泉右中将為尚、関白二条康道らの帰依を得、後水尾帝はその道風をきかれて召し権大僧都を賜わった。
寛永四年(一六二七)菊亭経季は洛北花園多野に三宝寺を創し日護を請じたが、そののち寛永六年六月御室仁和寺の奥、鳴滝村に地を求めここに三宝寺を移した。
三宝寺には中央金尾山に本坊、西谷に釈迦堂、東谷に釈迦堂、番神堂が建てられ、山内の景象は文守一絲の記によれば「蘚磴索紆、蘿門窈窕として佳木景象をなし心目の量を拡充す、香燈絶ゆるなく、僧房読誦怠りなく、層巒碧を重ね、危峰玉を削り、蜃壁粧をなし、軽煙斜にかかる」と述べられている。
日護はこの山中に昼は読誦の暇に仏像を刻み、夜は止観に心を傾け行学造像一日も懈怠なく、この間にまた法華経一部を鏤刻し版行摺写すること一八〇余部、このうち六〇余部を六〇余州の寺々におさめ、残りはすべて造像の胎内におさめた。
更に七センチばかりの釈尊立像の摺仏を一二〇万躯、この一躯を授けるごとに唱題一万遍することを約したという。
身延大野本遠寺の祖師像は法華経一部を胎内に納め奉納安置されたもののうちの一躯であるが、寛永二一年、日護六五歳の時の納経の奥書によれば、二一歳より六五歳に至る間、読誦妙典四五〇〇部、摺写妙経一八〇部、四一歳よりの造像約七〇〇〇余躯としるしてあり、もってその精進のさまが想見できる。寛永一四年、日護は弟子本覚院日英に三宝寺を譲り西賀茂の仏谷に隠棲したが常に造像を怠らず諸方の寺院並びに僧俗に寄せている。
正保四年(一六四七)秋、紀州(和歌山県)の徳川頼宣の再三の懇請により和歌山に掛錫、止まること余年、この間養珠院(頼宣の母)の外護により慶安元年(一六四八)和歌浦に宝塔をたて題目の一字一石を納埋したが、この浄業には後水尾上皇の染筆を始めとして朝野上下道俗が参化し翌二年二一万部の多きに達し、これを石凾に収めた。
日護は再び西賀茂の庵室に帰ったが、この年慶安二年四月一五日、七〇歳をもって入寂した。
日護には『三宝寺御書』という録外御書の編輯があるといわれているが、実は日護所持の御書であって本書は現に三宝寺に所蔵されている。
日護は妙法を弘通することが祖師の素懐であると考え、この目的のためには極めて柔軟な態度をとり、造像、妙経摺写によって弘教の方策とした。
また読誦を重んじ、戒律を厳守し、門下の本覚院日英はその宗風をうけて法華律を高揚したのである。
日護は上下の尊信をうけ諸宗の人々と交際したが文守一絲とは爾汝の交わりをした間柄で、一絲は日護の伝を書いてその道風を絶賛し「日蓮宗千載の標式」とたたえている。
《『本化別頭仏祖統紀』、宮崎英修「中正院日護上人と文守一絲禅師」『波木井南部氏事跡考』、同『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「日護」の項》