妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日相(本有院)

にっそう #2844

日相(本有院)

にっそう

(一六八八-一七五六)
字は光円、本有院と号す。
元禄元年一二月一二日、越後蒲原郡(新潟県蒲原郡)桐沢に生る。
本成寺一八世日延に師し、宮谷、小栗栖檀林に学び、享保五年(一七二〇)三沢檀林の設立開講に奔走し、功により三沢檀林の「三光様」(義高日珖・存光日禅・光円日相)の一人として数えられ、日相の学舎は光円寮と呼ばれ、その系統は本成寺派六法類の一つ相師法類(麻布法類)と称されていた。
本院九世を継ぎ、享保一八年には越中本法寺一七世を継ぐ(現在は二世に加歴があるので、一八世に配されている)。
日陣門流の四哲の一人に数えられている程の当時の本成寺派を代表する学匠で他宗との法論八箇に及ぶ。
三沢檀林中に一致派の本圀寺了義院日達と一致勝劣義の法論を行い、本法寺に在っては富山に会一院と称する説教所を移転設立し法線を張り、日達の資大法寺日芳と論争した。
寛保元年(一七四一)四月、会一院の説教に端を発し信徒が騒ぎ、大法寺が官に訴えた事により、大法寺が藩主前田家の菩提寺でもあり、また大法寺に帰依していた寺社奉行西尾逸外は同月二二日に「一致勝劣和順ノ儀ハ天下ノ御大法(略)向後御大法ノ通リ急度相守リ自讃毀他ハ申スニ及バズ勝劣ノ儀筋ヲ申立テ俗聞ヲ騒シ候儀堅ク無用ニ候、随テ一致門徒ノ儀ハ只今迄ノ通リ弥相慎ミ勤修アルベシ」との裁を下し日相に形を求めた。
日相は形を拒み為に追院の身となった。
この件は単に本法寺日相に係るのみならず、本山本成寺・江戸諸寺をまき込み、本成寺派にとっての大件に発展した。
勝劣の儀筋は古来より各門流に分かれて夫々破立の法義として公儀に認められている。
その法義を申立てずというになれば単に本成寺派のみならず、勝劣派全体にも係る事になるので容認出来ないという事で日相の後を受けた本法寺看坊自了院日達(越後本量寺隠士)、丸山本妙寺日徳らの尽力により何とか自讃毀他の項に止め、勝劣の法義停止の項を削除して貰い印形して件の落着を試みたが、一度下した裁定は曲げるが出来ぬというでそれが認められなかった。
しかし藩主前田利隆の死去により代が替り、藩内にも一致派に一方的有利に裁した定めは不公平であるとし、本成寺派の主張が認められた。
寛保元年の証文は反古にし、西尾逸外ら役人の不調法というにして、元禄四年(一六九一)に出されていた一致勝劣両派和順の項のみを先例としてこれに従う形で印形するになり同に日相の追院も赦免となった。
日相は追院中岩瀬上行寺に難を避け、次いで長岡本妙寺塔頭蓮香院、本成寺を経て越後稲荷岡に要行寺を建立し、当寺において宝暦六年一二月二三日、六九歳をもって示寂した。
著書に『真正記』『唱題念仏勝劣論』『破邪顕正記』『撃大毒鼓論』『御譲状注釈弁偽』等がある。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』》

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