日目(新田卿阿闍梨)
日目(新田卿阿闍梨)
にちもく
(一二六〇-一三三三)
蓮蔵房、後に新田卿阿闍梨、卿公日目と称す。
文応元年、静岡県伊豆畠山に生まれる。
俗姓は新田氏、父は太郎重房の嫡子重綱の五男にして、母は南条兵衛入道行増の女である。
文永九年(一二七二)一三歳にして、伊豆走湯山円蔵坊に登山出家し、文永一一年同所において白蓮日興に会し、師弟の約束を結び蓮蔵坊と号した。時に日目一五歳にして、その年日興に伴われ身延山に詣で聖人に拝眉している。
その後聖人に随身給仕し、弘安二年(一二七九)二月には、釈子日目として御本尊(桑名市伝馬町寿量寺蔵)を授与されている。
聖人御遷化の後、俗縁新田氏の旧領地、奥州の伝道の志を立て、陸前新田本源寺、森ノ上行寺等各所に新寺建立をし、甲州谷村に一宇新建立する。大宮安居山、蒲原の三寺はいずれも日目の建立する所にして、三ヵ寺共に大法山東漸寺と号し、古来より日本三漸寺と称するところである。
日目は日興の身延離山と共に同道し、また日興が正応四年(一二九一)上野の大石持仏堂より、北山重須に居を移した後に大石寺の東坊地蓮蔵房に在り、日興の教化を助け、日興門下の長老として、その地位は陰然たるものがあった。
日興の『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録ノ事』には日目は日華・日秀・日禅・日仙・日乗と共に本六人の一人として「日興第一の弟子也」と挙げられている。
正慶二年(一三三三)二月七日、日興の遷化に接し、その遺命に依り、日尊・日郷を伴い天奏上洛の旅路の途中、師命を達成せぬままに、美濃国垂井にて病を発し、同年一一月一五日遷化す。時に日目七四歳。
弟子日尊・日郷により当地に荼毘にし、日尊は日目の師命を奉じて上洛し、その後遺骨を東山鳥辺野に納むという。
また日郷は遺骨を奉じ、富士上野に帰り、その後日道と大石寺の法灯継承を争ったが、上野南条一族の血縁の無い日郷は大石寺を追われ自身の根拠地である房州保田にかえった。
日目は日興門下の長老として、門下の育英の法器に富み、その法系は同門中最も多く繁栄している。
代表的な弟子は日尊・日郷・日道等があり、京都要法寺、伊豆柳瀬実成寺、千葉保田妙本寺、富士小泉久遠寺、富士上野大石寺の五本山は共に日目の法流に属し、日華門下の日仙を同系とするならば、上野南条、伊豆新田、甲州系の一族の力の背景が改めて窺われ、更にその一族より人材が輩出している。
大石寺四世日道・同五世日行も共に上野、新田氏の血族、北山石川氏も上野氏の血縁である事は見逃す事は出来ない。
日興在世中、ことに入滅頃は富士門家の拡張展開はめざましく、多大な法功をあげ、鎌倉方や、天目門徒とは教学の対立が生じ始めていた。
日興が入滅し、それに随身するが如く日目が遷化すると、富士門下は新たな問題を考慮しなければならなくなったのであるが、その一例が教学面における本迹問題の方便品読不読の仙代問答にして、日仙の天目阿流、日代の鎌倉与同本迹迷乱という批判を後世に残すに至っているが、これらは感情的な問題のために諸師が動かされて門家の対立を大きくした感が深い。
また人事面では石川氏と河合系の由比、大内氏を背景に日代と石川氏・日妙との間に不和が生じ、日代は重須を離れ佐渡日満も日代と行を共にし、また他方大石寺にも日道と日郷の継承争いが起り、日道が南条、新田氏の外護のもとに第四世に晋み、日郷は保田に移り、妙本寺を建立するに至っている。
また重須談所も漸時弱体化し、談所学頭職の三位日順をなげかしめているが、これらは日興、日目の遷化のあとの出来事で、これを見るにつけても日興・日目の存在が如何に大きかったかが知られよう。
《『日蓮教団全史』、『遺文辞典』歴史篇「日目」の項、『日興門流上代事典』「日目(蓮蔵坊・新田卿公・卿僧・卿阿闍梨・西御房・西坊主・上野上人)」の項、『日本仏教人名辞典』「日目」の項、『国史大辞典』一一巻「日目」の項》