妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日意(円教院)

にちい #2665

日意(円教院)

にちい

(一四四四-一五一九)
字を泰藝といい、円教院と号す。
本化別頭仏祖統紀』『身延山史』では、字を法鏡と記しているが、その出典は明らかでない。
身延文庫」所蔵の日意写本には泰藝の名が見えることから、ここでは泰藝としておきたい、明応八年(一四九九)行学院日朝の後を受けて、身延山第一二世の法灯を継ぎ、在職二〇年に及んだ。
日意はもと天台宗の学僧で、伊勢桑名の妙蓮寺の主であったが、日朝とは比叡山同学と伝えられ、その学徳を慕って身延に至り、日朝に従って改衣し寺を妙延山寿量寺と改めた。
この妙蓮寺を寿量寺と改めた年代は「寿量寺文書」には、文明元年(一四六九)と記されている。
このことから、日意が日朝に改衣した年代は、文明元年以前と考えられるが、明らかでない。
身延文庫」所蔵の日意の所写本には、寛正七年(一四六六)の二三歳から文明四年二九歳に至る間に、泰藝の名のもとに学を修学した写本が現存している。
その修学の場所は武蔵金鑽寺であって、栄源より口伝書等を相伝しているのである。
これらの資料から推測すると日意が金鑽寺での遊学期中に日朝に改衣したことになるが、日意の改衣の年代については、更に検討の余地があろう。
なお文明八年の写本には日意の銘が見える。
文明九年日朝の命を受けて、一条尻切屋町に妙伝寺を創し、自ら住職となり、聖人の御遺骨を分骨して関西身延と称した(『身延山史』)。
また日朝は同年鎌倉本覚寺にも御遺骨を分祀して東身延と称せられるに至ったという。
明応七-八年には大地震、大風等があり、日朝は明応八年に後職を日意にゆずって行学院に退き、翌九年六月二五日、七九歳をもって入寂している。
日意は震災等の災害によって荒廃した身延山諸堂の復興に努め、合せて門弟檀越の指導、化にその実を挙げた。
日意が京都妙伝寺に明応六年まで居住していたことは『止観大意奥書』に妙伝寺において書したことが記されていることによって明らかである。
妙伝寺は日意のあとを浄院日胤が受けている。
日意は妙伝寺より身延山の貫主職につき、二〇年にわたったが、永正一六年(一五一九)西谷円教房に閑居し、二月三日に入寂した。
その法灯は宝聚院日伝によって継承された。
日意の開創の寺は勢州寿量寺、顕本寺、京都妙伝寺等である。
著述には『観心本尊書抄』『堂供養法則』『安国・開目・報恩三部御抄聞書』等がある。
また書写本として『宝物集抜書』二巻、『八幡愚童訓』『心地教行決』や天台宗相伝書等が多く現在している。
日蓮聖人遺文では真蹟身延曽存の『四条金吾殿御書』写本や『身延山御書』写本が妙伝寺に存する。おそらくさらに多くの遺文写本が作成されたと思われる。
日意の久遠寺所蔵日蓮聖人真蹟遺文の整理録に『大聖人御筆目録』(身延意師目録・日意目録)があって、真蹟遺文の伝存状況を今に伝える貴重な史料である。
この目録は平成二四三月『身延山資料叢書二』として影版が発行された。
《『本山妙傳寺資料鑑』、桑名貫正「開山円教院日意上人伝に関する二、三の問題について」『身延論叢』二、『遺文辞典』歴史篇「日意」の項(一)、同「大聖人御筆目録」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』》

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