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日導(一妙院)

にちどう #2602

日導(一妙院)

にちどう

(一七二四-八九)
字は智渓、一妙院と号す。
近世日蓮宗学の泰斗。
彼の日蓮宗教学史上画期的な名著『祖書綱要』にちなんで「綱要導師」と称される。
享保九年、医師井上氏を父として肥後熊本に生れ、幼名を一妙という。
その名は法華信仰篤い父がつけたものである。
一〇歳の熊本本妙寺塔頭東光院の室に投じて出家し栄雅と改めた。
一八歳の、志を懐いて京鷹ヶ峰檀林に入り習学に勤めたが、貧困のためにはなはだしく苦学する。
の化主谷中妙福寺観道日禅はこれを見かねて世話をし、帰東に際し日導を江戸に連れ従えた。
そこで日禅に師して名を智渓と改め、日深と号す(後に日導と改む)。
師に従って高田本松寺に移り、その本松寺の聖人御影に本化の学成就を祈請し、感応を受けたと伝えられる。
後、正東(中村)檀林に笈を負い、苦学精励、宗義の研鑽に寝食を忘れ、頭角を現す。
この頃檀林は天台教学を習うことを専らとし、聖人の御書を読むことを禁ずるというような台学偏向の風が蔓延していた。
彼はこれを嘆き、本化宗学の興隆を願い、宗風宣揚をもって自己の使命と任ずるようになった。
二六歳の(智渓日深)、社中の同学旨広日義・忍宏日竜・義道日到・好存日芳と共に五人同盟を結び、本化学の研鑽に異体同心して精勤する旨の誓状を作った。に寛延二年(一七四九)八月二九日のことである。
その「同盟起請文」に「それ末法五百広宣流布は大聖の金言なり。今正しくこれ時なり、未だその勢を視ず、何ぞや、蓋し法は独り弘まらず、必ずやそれ人に依る。荀しくもその人に非ずんば安んぞよくこれを談ぜん。嗚呼、吾が法衰えんと欲するか」と、当時の本化団の衰退に慷慨し、「吾が祖の妙化を顕揚せんと欲する」をもっての故に、五人断金の交を結ぶとある。
そのあとに憂宗護法の若き学徒の真摯な情熱が胸をうつ誓約の条項が列記されてある。
この五人が悲壮な覚悟で同盟を結んだ直接の因由に、当真宗の越中氷見の義と論戦して劣勢はなはだしかった本宗に対する義憤があったことが、その起請文から挙げられる。
しかし彼らは常々日蓮宗学界の頽廃を嘆き合い、学樹立の方策を語り合っていたであろうし、その結果が「五人同盟」をもたらしたのであろう。
そしてこの盟約こそが、四〇年後に本化宗学復興の大著『祖書綱要』を世に生み出すこととなったのである。
日導は在檀中同学士に常に「噫、社中の学士、縦い台の六〇巻を明練し、荊渓四明の佳児孫と称すとも、苟しくも塔内別付の賾を探らんずば我に於いて何如。設い一代経を語ること文殊等の如きとも、法華の文文をもって題目の五字に結することを識らずんば、末法弘通の師とするに足らず」(「感読祖書綱要」)と語っていたという。
その思想の帰趨を窺い知ることができよう。
日導、学成って一夏檀林で妙玄を講じ、ついで中村の妙興寺に住し、江戸牛込恵光寺に移って一五年余り、その間、青年時代の志を成就するべく祖書に参究し、聖人学の枢要を著し始めた。
明三年(一七八三)寺内の我浄土庵に退蔵してもっぱら著述に励む。
翌四年には中村檀林の化主に招せられたが文句をじて直ちに帰り著述を続け翌五年、ついに論述の完成をみた。
その量二三、日蓮聖人御書の眼目、要諦を説き明かしたところから、名づけて『祖書綱要』という。
翌五年には肥後侯の請により熊本本妙寺二一世に瑞世し、在山三年、寛政元年七月一二日、本化宗学樹立に曄世(ようせ)をかけたその一生をおえた。世寿六六歳。
著述は『祖書綱要』の他『法華即身成仏義』『裁断惑説』『草木成仏記』『四種三段』等あり。
祖書綱要』二三巻は安永九年(一七八〇)から稿を起し、天明五年(一七八五)に一応完成し、熊本の三年間はもっぱら校訂に費された。それは六四章より成る日蓮宗最初の宗学の体系的組織書である。
執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、稲田海素「祖書綱要並に同刪略に就て」『大崎学報』五三号、『日蓮辞典』『日本仏人名辞典』「日導」の項

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