妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

妙覚寺(京都府京都市)

みょうかくじ #1618

妙覚寺(京都府京都市)

みょうかくじ

日蓮宗由緒寺院の一つ。
京都市上京区に所在。
具足山と号す。
当寺は妙顕寺、立本寺と並んで龍華の三具足山と呼称され、日蓮宗の京都二十一箇本寺あるいは十六箇本寺を横成する本寺格の寺院である。
開山は日像とされるが、実際には永和四年(一三七八)に妙顕寺朗源の弟子龍華院日実が分派を興し開創したものである。
その際、日実は日像を開山祖と仰ぎ、大覚妙実を二世とし、師匠の朗源を三祖とあがめ、自ら四世となって、現在に至るまで七四世にわたって法灯を護持している寺院である。
開基檀那小野妙覚尼とされ、日実が妙顕寺より分派した時に妙覚尼の別荘があった四条大宮妙覚に堂舎を構えた。
次いで文明一五年(一四八三)に足利義尚の命により室町西二条南小路衣柵(現在の妙覚寺町)に移り、その基礎をかため、線の拡大を図った。
そのに明応五年(一四九六)には妙蓮寺との論争、文五年(一五三六)には叡山との間に天文法難が生じ、第一五世日兆の殉死と自の焼失、文一七年に再興、だが正一〇年(一五八二)の本能寺の変により再び焼失、同一八年八月ごろ豊臣秀吉の京都市中改造によって現在地に移転再築を命じられた。
その折、檀那の木下清蔵より別居の大徳寺領借地、松梅院借地を寄進され年貢地として認められ、ここに今日に至るまでの寺域の確定をみた。

 このに各歴代貫首は地方巡錫に努力し、強義折伏不受不施義を教化の伝統として、畿内を中心に中国、北陸、九州に信徒を獲得し、末寺を建立して線を拡張していった。
例えば第七世日延は紀州(和歌山県)大田妙台寺を中興、第九世日意は泉州(大阪府)堺に経王寺を建立し、第十一世日住は当時対立が激しかつた身延山久遠寺、中山法華経寺、比企谷妙本寺、平賀本土寺などの関東系本山との和融に尽力し、寛正六年(一四六五)一〇月には足利義政に『妙法治世集』を献上した。
翌七年二月一六日には、叡山に対抗するために京都における日蓮宗諸門流の結束の「寛正の盟約」提携にも成功した。
更にこのころ紀州に正住寺をも建立。
第一三世日護は岐阜城主斎藤利藤に招かれ常在寺を開基している。
第一五世日兆は備前(岡山県)金川城主松田左近の子息で前述の天文法難の際に殉死している。
第一七世日饒は斎藤道三の子息として知られている。
このように各地方の有力土豪の子息を歴代に加えながら線の拡大を計っていった。
一八世の安院日奥の代にまで一〇〇〇余ヵ寺の末寺が建立されたと伝えられる。

 日奥は不受不施派の開祖と知られるように妥協を知らぬ強義折伏をもって、線の拡大を計った人物である。
慶長四年(一五九九)には大坂城において公権力を背景にした受施派と対決し以降一三年対島配流というように、公権力に対して不受不施義を堅守し反権力の立場を固守した。
しかし寛永七年(一六三〇)日奥の死と共に妙覚寺は受施派の代表身延山久遠寺日乾の入寺により受派によって把握されることとなった。
一〇〇〇余ヵ寺を数えた末寺は離反、独立の態を現した。
日乾以降の貫首は離反末寺を説諭し勢力の回復に尽力し、凡そ一四〇ヵ寺を統制下に置くことができた。
幕末には一五〇余ヵ寺に数が増している。

 妙覚寺の末寺の分布状況は、畿内四〇ヵ寺、備前(岡山県東南部)、美作(岡山県北部)を中心にした中国地方七〇余ヵ寺、北陸地方二〇余ヵ寺、四国地方六ヵ寺、東海地方九ヵ寺、九州地方一〇ヵ寺余りとなっており、西日本に布教基盤があったといえる。
末寺支配数の上からいえば、妙覚寺を頂点とする教団は弱小といえようが、不受不施問題に関連する末寺把握の在り方は江戸幕府の政治的動向との関連において考慮する必要があり、内容的にも注目すべき本寺といえる。
《坂本勝成「京都妙覚寺本末考」『近世法華仏教の展開』、『京都北龍華妙覚寺文書目録』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『禁制不受不施派の研究』、『日蓮辞典』「妙覚寺」の項、『国史大辞典』一三巻「妙覚寺(京都)」の項

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