遠忌【組織・機構】
遠忌【組織・機構】
おんき
「えんき」とも訓ず。
仏教諸宗派で各宗の祖師あるいは中興の祖などにたいして、五十年忌以後五〇年ごとにその遺徳を追慕して修する報恩の法会をいう。
五十年忌以前は一周忌,三回忌・七回忌・十三回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・四十三回忌・四十七回忌等を修し、以後は五〇年ごとに修するを例とする。
宗祖日蓮聖人の遠忌の年次を示すと次のようになる。
五〇遠忌・元弘元年(南朝)元徳三年(北朝)一三三一
一〇〇遠忌・弘和元年(南朝)永徳元年(北朝)一三八一
一五〇遠忌・永享三年・一四三一
二〇〇遠忌・文明一三年・一四八一
二五〇遠忌・享禄四年・一五三一
三〇〇遠忌・天正九年・一五八一
三五〇遠忌・寛永八年・一六三一
四〇〇遠忌・天和元年・一六八一
四五〇遠忌・享保一六年・一七三一
五〇〇遠忌・天明元年・一七八一
五五〇遠忌・天保二年・一八三一
六〇〇遠忌・明治一四年・一八八一
六五〇遠忌・昭和六年・一九三一
七〇〇遠忌・昭和五六年・一九八一
聖人の五〇遠忌についての記録は末見であるが、一〇〇遠忌については『本圀寺年譜』に一〇〇年報恩会千部を修すという記録が見える。
日蓮聖人の遠忌が諸山諸寺において盛大に何日間にもわたって執り行われるようになるのは、江戸時代も半ばの四五〇遠忌の頃からである。
これにはいろいろな理由が考えられようが、日蓮聖人にたいする信仰が庶民的な広がりをみせると共に、そうした多数の民衆が寺社参詣への経済的身分的可能性を獲得して来たこと、更に交通事情等の客観的条件も整っていったことなどが、この時期多くの善男善女を、遠忌という宗門最大の行事に動員することを可能にしたのであろう。
時代が近代へと移ると、政治体制の変化に伴い、それまで幕藩体制の厚い庇護の下にあった仏教教団も転換を迫られたのであるが、我宗一致派においては明治九年(一八七六)に日蓮宗公称の官許を得、更に明治維新政府による教団の中央集権化の意向をもうけて、同一一年従来多数本山制を改め、祖廟のある身延山久遠寺を総本山とし、本門寺・妙顕寺・本圀寺・法華経寺を四大本山、そして三九ヵ寺の本山を置く組織を定めたのであった。
そうした中にあって総本山たる身延の明治八年一月一〇日の炎上は、六〇〇遠忌を数年後にひかえて大きな痛手であった。
身延ではすぐさま復興に努め、六〇〇遠忌の大法要を厳修すべく明治一三年遠忌虔修差定の布達を末寺一般に発し、同時に参詣者の便利のために山路を修復し、また甲府身延間の道路の改修をするなどして遠忌を迎えたのであった。
遠忌大法要は三期に分け、第一期を三月二一日より五月一二日迄とし、この間御真骨堂・祖師堂上棟式並に御真骨・祖師像御遷座式等を行い、第二期を七月七日より同一三日迄一週間挙行して開闢会を修し、第三期を一一月一三日より一二月五日迄とし、読誦・十講法会・頓写会・懺法会等を奉行したのであった。
宗門においても六月二五日より五日間日蓮宗大教院に於て日蓮聖人六〇〇遠忌が修せられ、このような遠忌法要は池上を始め全国各地でも営まれた。
更にこの遠忌を記念する寺門の造営もまた全国各地で見られた。
最近においては昭和六年の六五〇遠忌に際し、先の聖誕七〇〇年の諡号宣下についで勅額が下賜された。
まず、池上本門寺にて宗門としての拝戴式が挙行され、身延において奉戴式典が催され、「立正」の勅額は門下各派管長総意をもって久遠寺に奉安されることとなり、現在に至っている。
また身延に仏殿納牌堂の建立が見られたようにこの機を期しての伽藍の造営もまた盛んになされたのであった。
昭和五六年は日蓮聖人七〇〇遠忌に相当するので宗門を挙げて遠忌事業が行われた。