妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日門(普伝院)

にちもん #3161

日門(普伝院)

にちもん

(-一五七九)
普伝院と号す。
織田信長が下の統一に向って進んでいた頃、諸大名から庶民に至るまでの幅広い層に伝道活動を展開した僧である。
特に庶民のでの活躍は目覚ましく、各地に多くの改宗者を出して、日蓮宗の伸張に大きく貢献をした。
日門の伝道の歩みは、やがて信長の安土城下にまで及び、宗門内外に高い名声を博した。
その拠点となったのは近江八の本妙寺で、信長にも謁したことがあるほどの勢いであった。
正七年(一五七九)五月、信長が日蓮宗を弾圧するために画策した安土宗論の端緒は、安土城下における日門のこのような活躍にあるに違いない。
正七年五月二七日に、安土の浄厳院で大勢の聴衆に囲まれて安土宗論は行われた。
日門は正式の問答者ではなく、聴衆の中に入っていた。
やがて問答が混乱のうちに日蓮宗の負けと判定されるや、塩屋伝介と日門が探し出され信長の面前で首を斬られた。
日門は伝介と共に安土宗論における殉教者となったのである。
日門は当「普伝」と一般に呼ばれていたようであるが、その出生や経歴等については、あまり明確ではない。
少ない史料をよすがに、その面影を探ってみよう。
普伝院日門は肥前(長崎県か佐賀県)の生れで、永禄一〇年(一五六七)に関東に下向し、上総浜野本行寺に滞在した。
ここに居ること一両年にして京に上り、京都を中心に伝道活動を展開し、やがて近江八に本妙寺を創立して活躍した。
彼が安土宗論に遭遇したのはこのである。
日門の僧侶としての出発は、日蓮宗の僧ではなく他宗に属していた。信長が彼の首をはねさせるとき「老い先短し」と言ったことを考えると、若年の間は他宗の僧侶として活躍したのであろう。
やがて永禄一一年頃に日蓮宗に改宗し、先述したように上総国(千葉県)に下向して日什の開いた顕本法華宗に属した。
その後、京都に帰ると別に門派を定めずに日蓮宗の伝道活動を展開し、天正七年頃に日真門流法華宗)に帰属した。
問答者の一人である日渕が「普伝は近日帰伏の人」と言っているのは、このことを指しているのである。
このように門流のワクを越えて伝道活動を展開していた日門は、日蓮宗学そのものにも探く通暁していた。
元亀二年(一五七一)に、心日珖の弟子の日重が、堺妙国寺で三〇座の講談に列ったことがある。
この席に普伝日門がいて、日重の義を聴聞し、その出来栄えを大いに賞歎した。日重はこれをまことに光栄に思ったという。
日門の学識が当の宗門に認められていたことを、この実がよく物語っている。
それから七年の後、正六年五月、日珖は普伝を呼び寄せて、某殿の教上の師範として定め、御殿において法談興行させている。この「某殿」とは、公の名門たる近衛殿ではないかという説があるほど、日門の学解は実に深いものであった。
更に浄土宗側の記録たる『安土宗論諺話』には次のように記されている。
「京都鷹峰といふ檀林所化に、不伝といふ僧が来り給ひて、二七日間の説法あり、学文といひ、弁説といひ、並びなき聖人なり」
日門の高名は日蓮宗と対抗関係にあたる浄土宗にも聞こえていたのである。
その名声は界のみならず、世にも広く聞えていた。
信長の伝記をまとめた『信長公記』には日門について更に高名な学僧として、彼を紹介している。
「去秋より在洛候、一切経之内何れの所に如何様の文字これありと、中にて申す程の物知りの由に候、八宗顕学仕候中には、法華宗よき宗と申し」ていたというのである。
京都を始めとする近畿地方の日蓮宗は、天文法難によって大打撃を受けた。
けれど僧俗ともに協力して復興にあたり、織田信長の代になると、その勢力もかなりのものに上った。
このような日蓮宗の歴史において、大寺に住む僧侶の役割を考えるとともに、広く庶民の間に交わって伝道を進めていった僧侶にも、十分に注意を払わなくてはならない。
普伝院日門も、そのような僧侶の一人であった。
《宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏人名辞典』「日門」の項》

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