日莚(隆源院)
日莚(隆源院)
にちえん
(一六〇八-八一)
字は春山、隆源院と号す。身延山二九世。
京都の商家七織屋(ななおりや)に生れる。
幼少紀州養珠寺二世・中正院日護について得度、一八歳で紀州養珠夫人、加州寿福夫人の援助を得て下総中村檀林に遊学、更に小西檀林に移り研鑽一〇数年、若冠三〇歳で小西一一世能化となる。
晩年、秋田佐竹藩の配処にあったとき、往時を追懐して「山僧蚤(はや)ク虚名ヲ得テ顕位ニ昇ル初メハ謂ワク、遠上二十八歳ニシテ飯高ノ化主ト為ル。吾今二歳ヲ加エテ忝クモ小西ノ請ヲ受ク、今老成ヲ以テ往年ヲ回顧スレバ悉ク是レ妄想ニシテ幾ク諸生ヲカ誤リシナラン」(『本化別頭仏祖統紀』)といっている。
次いで中村檀林一〇世化主、玉沢妙法華寺一九世に嗣法し、明暦元年(一六五五)京都妙顕寺一七世貫主となり在位一一年、この間五重塔・七面社造営す。
寛文七年(一六六七)祖山二九世の法灯を継承す。
思親閣祖師堂並に拝殿を再建、西谷檀林講堂建立、常経堂、衆寮、食堂等新建立、更に上之山に常唱堂、宝塔を建立す。
また久遠寺宝蔵中の日蓮聖人真蹟等の表装を改め、狩野元信筆画の損傷を憂いて表装して宝蔵に収む。更に菩提梯の完成に努力するなど、祖山在職六年は霊宝の修覆保管と勧学営繕等の祖山護持の丹精であった。
寛文一三年三月、後董を寂遠院日通に譲って京都紫野に隠栖して風月を友とした。
しかし延宝七年(一六七九)二月、日通が遷化するとその後継をめぐって飯高檀林能化の一円院日脱を推挙する派と、祖山の大事なるが故に古例にならって選挙にとする派が生じ、両派が激しく争うようになった。
日莚これを黙視し得ず、両派を調停するために江戸寺社奉行板倉石見守と対論す。
然るに奉行は「日莚諸寺諸山ニ例ナキ新法ヲ企ダテテ、隠居ノ身ヲモ顧ミズ一山ニ党シテ騒擾ヲ醸セシ段ソノ罪軽カラズ」と裁断され、延宝七年一〇月四日、秋田藩佐竹右京大夫義処の許に預けの身となる。
即ち七一の老体ながら城中二の丸の安楽寺へと配流。配所にあること三年、天和元年一月二七日寿七三歳にて化す。
遺骸は秋田久成寺に下され矢橋村不動山にて荼毘にす。
舎利を収拾して身延(上之山莚師廟堂)、龍華(京都妙顕寺)、玉沢妙法華寺、中村並に小西両檀林の五ヵ所に分骨奉祀す。
日莚の門下からは本国寺日隆・妙顕寺日利・小倉山日現らを始め、多くの門弟が輩出されたことで知られている。
莚師法縁の形成である。
著書に『不受不施論記』一巻、『一期行業』一巻、『身延山御書類聚』二巻がある。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『日蓮宗徒群像』、『身延山史』、久遠寺蔵『身延山略譜』『秋田県日蓮教団史』》