日禛(究竟院・京都本国寺)
日禛(究竟院・京都本国寺)
にっしん
(一五六一-一六一七)
本国寺一六世。
字は尊覚、究竟院と号す。
広橋権大納言国光卿の子で、幼名を鶴寿麻呂という。
天正二年(一五七四)、一四歳にして六条本国寺一五世中道院日栖の門に入り得度、近衛関白晴嗣の猶子となる。
天正六年、若冠一八歳にして師跡を継承。
本国寺に住すること一九年、大いに学業をみがき、智行兼備の誉れあり、権僧正、僧正に叙任された。
元和三年(一六一七)八月二三日、五七歳にて遷化。
この間、天正一一年本国寺に学道を設け、同一九年その規模を改め大いに堂宇をひろげ、一如院日重を請じて講主とし、日重は関西系学派の主流である天台三大郡を講じた。
学道は求法講院と称し、後に求法院檀林と称した。
公武間の帰依も厚く、木下弥助、後の羽柴武蔵守一路の妻智子(端竜院妙慧日秀)は天正一八年本国寺に立像堂、並びに安土御殿の一部を客殿として寄進し、慶長元年(一五九六)一月、日禛につき得度した。
加藤清正は文禄元年(一五九二)秀吉の朝鮮征伐に際し首題七字の旗を受け、日禛は妙経一万部読誦会を修し戦勝祈願をした。
九州の宗勢は清正の外護により惣本寺である本妙寺が六条門流の拠点となって活況を呈した。
小早川秀秋は木下肥後守家定の五男、筑前中納言にして、金吾黄門と称し、歌道に長じた。
弟子の礼を執り、日禛の隠棲地に常寂寺の創立を支援した。
安土宗論の結果によって日蓮聖人以来の宗制の軟化する宗風の中に、不受不施と他宗同座禁に対する議論の起った事は、聖人への回帰といえる。
為政者の強圧の下に宗風を守るか、宗門の存続を企てるかにより、教団が二派に分れる端緒となったのは、天正一四年秀吉が東山に方広寺大仏を創し、文禄四年九月、大仏千僧供養会出仕の要請を下したことであった。
本国寺に京都諸山の会合を開いた。
本国寺日禛、立本寺日抽、頂妙寺日教、本法寺日通、本満寺日重、本国寺学道講主日乾を中心とした結論は、宗門破却を考えると、一度は貴命を受ける方向に進んだが、不出仕を主張する妙覚寺日奥に日禛、日乾、妙顕寺日紹も賛同した。
しかし日乾は日重の、日紹は日乾の意見を入れ大仏供養会出仕を決したが、なおも日奥、日禛は不出仕を持し、日禛は岸和田の小出播磨守秀政の元へ相談に出向した。
この秀政は秀吉の大政所の妹を聚り、秀吉の信任あつい人であった。
秀政は日禛に自重を勧めたものか、翌、慶長五年四月まで本国寺に住し、四月二七日同寺を大蔵卿日桓に譲り、佐渡の霊跡を巡拝した。
この折、富山にて法流山妙伝寺を創し、その後、金沢に妙伝寺を創した。
本国寺一四世日助の創した越中新川郡の妙伝寺と共にこの法流山妙伝寺三ヵ寺は六条一致派北陸弘通の拠点となった。
佐渡より帰洛した日禛は、嵯峨小倉山常寂光寺に隠棲した。
同寺にて日奥と共に日重、日紹らの供養会出仕者に対し非難をあびせた。
これより多くの末寺、檀那の離反を起したので、出仕側は秀吉に訴えたようである。
慶長三年秀吉甍じ、翌年一一月一三日、出仕側は家康に日奥、日禛を訴え、同月二〇日家康の命により大坂城にて妙顕寺日紹、堺妙国寺日暁と対決することになった。
これが慶長の不受不施事件で、いわゆる大坂対論である。
この時になって日禛は遂に家康の譲歩案を入れ国主証文という名文の立つ申出によって供養会出仕を認める事になったが、日奥一人のみ依然受け入れる事なく、公命違背の罪により翌年六月、対馬に配流された。
こうして宗内に、幕府権力の強圧を感じ、王侯、公武除外の態勢は徳川政権下にあって漸次推進され、受不施者の間に幕府と教団との衝突を避けるべく公儀の出仕には欠席せず、公武の施物には信謗受否を論ぜずなどの「慶長の盟約」を生むこととなった。