慶長の盟約
慶長の盟約
けいちょうのめいやく
慶長年間(一五九六-一六一五)、日蓮宗諸本寺が合同して制定した「法華宗諸寺一統条目」をいう。
その条文は次の通りである。
一、公武の御音信油断あるべからざるの事
一、往古以来諸寺一統に定め置かるる法度(はっと)の旨、相違なく守るべきの事
一、寺法にあい背く輩これあるにおいては、寺内を追却すべきの事
一、不時の夜行、夜中の湯風呂等停止(ちょうじ)の事。
ただし公武の目通(めどおり)はこれを除く
一、過分の酒宴、高声の雑談、小歌、辻遙(謡・歌)等用否あるべきの事。
ただし公武の参会はこれを除く
一、在家のために僧房を借し魚鳥を振舞うこと堅く停止の事。
ただし公武の儀はこれを除く
一、諸寺のために定め置かるる方規違背すべからざるの事
右条々に違犯の輩は、宗旨を致されず、この趣、諸門徒ならびに諸末寺に至るまで、あい触れらるべきものなり、仍って件の如し(原漢文体)
この盟約の文章は、小笠原毅堂『日宗史談』所引によって知られるのみで、諸本寺に交わされたに違いないこの盟約の写しの所在は未詳。
年月日がないので、これが慶長年間のものであるかについては問題があるが、小笠原氏は慶長四年(一五九九)大坂城で行われた日奥と日統・日紹との受不受の対論を経て、翌年日奥が対馬に流されて間もないころのものと見ている。
これによれば、受不受の対立拮抗と受派の優勢に基づく状況のなかでの盟約となるが、これに対して宮崎英修は別の見解を提示した。
宮崎は、この条目には公武の意向のみを慮ばかる汲々とした態度のみが表明されているとし、第一条における公武の音信に油断せざれとすることや、ただし書きにおける公武の除外などを指摘して、これを日奥流罪のすぐ後の制定とは思われないとし、むしろ常楽院日経の法難、徳川家康の命による念仏無間の文は経釈中になく、日蓮聖人の立義であるとの誓状を日蓮宗諸本寺が提出した慶長一四年(一六〇)ごろの制定とした。
《小笠原毅堂『日宗史談』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』》