日宣(英智院)
日宣(英智院)
にっせん
(一七六〇-一八四六)
字は智寛、英智院と号す。
京都伏見本教寺一七世。
文化四年(一八〇七)四月、日宣は冠井山直経寺の能化を終え、同年七月下旬に伏見を発ち、同八年に身延・大野山・七面山・小室山に詣でる。
日宣はこの地において鰍沢(現・富士川町鰍沢)妙臺寺日進と青柳青柳寺日遄の二人に出会う。
二人は日宣に最近出雲国(島根県)よりこの地に来ている神道家の満鯨彦(みつはたひこと)が、「神国における儒仏の二道を持つ輩は神恩を蒙りて其恩知らず、是畜生也」と大いに詈るばかりでなく、「天竺の釈迦震旦の伏義は畜生の種子なり」と説き、日蓮宗の信者を困惑させているので、是非この地において法華神道の講説をしてもらうべく滞在を願った。
日宣は同八月下旬より同地甲斐国(山梨県)の各地において神仏一体の旨を説き始めた。
これを聞いた神道者は大いに驚き、藤田村・小笠原・南胡の宮等に五人一〇人と集り評議した。
一方、世間の評判はいよいよ高く昼夜に日宣の講説を聞きにきた。
ときあたかも同一一月二八日、日宣は甲府の法花寺において講説をもうけた。
この時、神道家の穴山庄・生山・大隅守、大八田村・輿石・土佐守、千塚村・窪田・造酒之助、駒井村・上原・越前、河原村・腰巻・権之頭、宮の脇・矢巻・丹波、円扶村・歌田・沖内、下条村・土橋・右京、打居村・横森・薩摩、武田社人・矢野・斉宮、等の一〇人を頭に、三〇名が日宣に問答を申し込んで来た。
日宣側は侍者に小西檀林和光院日明、記録係に英唅院日通。
神道側記録に南胡宮神職・歌之助が務めた。
神職者の第一番問者の土佐守は「御門の書付に神道講譚とあるは我等が職分にて仏者の法説に非ず」と問いかけた。
日宣は「神道といえば一と通りと思はれ候や、是神道と申しても凡そ十段に相ひ分る。先ず十八の神道、諸源壇の神道、元本宗源の神道、本地垂跡の神道、両部習合の神道、社例伝記の神道、唯一神道、五重神代の神道、次第神代の神道、因縁神代の神道とて都合十段に相分る。其中に本地垂跡の神道、両部神道、社例伝記神道、因縁神代の神道等はこれ仏法にて仕立たる神道なり、然れば仏法者是を説くに何ぞ子細有りや」と答え、一つ一つ説明を加えると、神道者三〇余人は茫然として顔を見合わせた、という。
また三十番神の出問に対しては、日蓮聖人が比叡山で感得したこと、更に吉田卜部神道兼益より伝授したことをもって答え、曼陀羅に勧請されている天照・八幡の二神の質問には、神力品の神を十界の天上界の神として答えた。
最後に日宣が「神職の銘々外に何ぞ尋ノ義はこれ無く候や」と聞くと、大隅守を始めとして神職一同は「此の度び不思議の事にて対面致し珍らしき事を承り有りがたき事に候。
御尋申上候処、条々一々に御返答成し下され、大に感銘仕候。
吾々職分相立ち申さず候間、何卒まけたと申事は御申し無きよう願入候」と日宣に頼んだ。
日宣が「承知した」ということで、一同は大笑して対論は終った、という。
後座には神職者三〇余名が、日宣の高座の前列に坐し、千余人の参詣者と聴聞者があって堂内は満ちあふれたという。
後に吉田二位良連はこの甲府問答の報告を聞いて、日宣の精学をほめ賀礼を送っている。
日宣が神職者と問答した時期は、儒学者の富永仲基、服部天游らの大乗非仏説と、国学者による仏教批判、日蓮宗攻撃がはじまっていた時でもある。
日宣はこうしたなかで受法者教万人の教績を挙げた人物である。
著書には『甲府神道問答』二巻、『四箇名言論』『実勝権劣論』『三道合法図解』『住迹顕本抄』『番神縁起論』三巻、『神代巻評撰記』五巻、『異体同心抄』『説法聴聞書』『聴取法門集』『教訓鈔』『歴覧家宝』等がある。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』》