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日伝(肥前阿闍梨)

にちでん #2437

日伝(肥前阿闍梨)

にちでん

(一二二二-一三〇二)
中老僧の一人。
山梨県南巨摩郡小室妙法寺開山。肥前阿闍梨と号す。
肥前(長崎県)の生まれ。
寺伝によれば、幼、多聞丸と呼ばれて聡明、鞍馬山において仏道を修行し、剃髪して善智(知)(あるいは慧朝)と改め、真言宗修験の道を修めた。
そして東巡行のうち、ここ小室の地に至り、もと役行者の霊場で多くの名僧を輩出した地であるとして、錫をとどめた。
小室山は仁王護国院金胎山と号する真言宗寺院で、東国における修験の棟梁であった。
智はこの中にあって蘊奥をきわめ、学頭に任し肥前法に叙せられ、ついに主職となった。
こうした、日蓮聖人が、日興・日朗を随え、この地に遊化し、土録(どろく)の地において、里人が蛭(ひる)に苦しむのを聞き、蛭が血を吸うことを封じた。
日蓮聖人法力を聞いた善智は衆を率いて聖人と法論し、金剛の秘法をもって聖人の座していた大盤石を空中に揚げたところ、聖人は題目によって、これを中にとどめた。
これにより智は聖人の弟子となった。
文永一一年(一二七四)五月二八日のであり、これを山伏問答という。
しかし必ずしも心服しなかった智は建治元年(一二七五)八月、初めて身延山を訪れ、鴆(きゆう)毒入りの飯を持参、聖人が、白犬にこれを与えたところ、白犬はたちまち死し、またこれを蘇生させた。
心から聖人帰依した善智は日伝と改め、身延の嶺下に志摩坊を営んで聖人に仕えた。
聖人は日伝を中老僧の一人としたという。
日伝はのち小室に帰り寺を日蓮宗とし徳栄山妙法寺とした。
そして近隣を化すること数十年、乾元元年二月一二日、七九歳で滅した。
法論をした石は懸腰石といい、同町小室区土録に妙石山懸腰寺が伝えられている。
妙法寺は三世日尊の代に富士門流となり、本迹勝劣をたてたが、身延七世日叡に論破され、至徳三年(一三八六)頃再び身延門流となった。
しかし常に身延末寺扱いを不満とし、天正一一年(一五八三)徳川家康は無本寺とした。
江戸代には末寺三五ヵ寺を配下とし、朱印地七石二斗、寺中七八〇坪、山林広大にして規模壮大であった。
《『日本仏教人名辞典』「日伝」の項、『日興門流上代典』「日伝(肥前房)」の項》

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